契約の口づけ

  チリが毎日のように森へ通いつめて、半月が経とうとしていた。その日のユエは、いつものように高い木の上にいたが、様子が明らかにおかしかった。

  「ユエちゃん、今日も来たで。……あれ、どないしたん? 元気ないなぁ。」

  いつもなら「また来たの」「早く帰れ」と鋭い視線を飛ばしてくるはずなのに、今日のユエは一度もこちらを見ようとしない。問いかけに対しても、「……別に」「帰れば……」と、短い言葉が返ってきただけだった。

  (……なんや。いつもの『嫌い』とは、ちょっと違う感じやな。)

  チリは踏み込みたい衝動を抑え、あえてそれ以上は聞かなかった。ここでしつこくすれば、ようやく縮まりかけた距離まで逃げられそうだった。その違和感の意味を、チリは翌日になって思い知ることになる。

  「ユエちゃーん?……っておらん。木の上におらんのか。」

  いつもの定位置が空なことに、チリの心臓は嫌な音を立てた。嫌な予感を振り払うように、足早に岩陰の小さな家へ向かった。

  「ユエちゃん、入るで……っ!?」

  足を踏み入れた瞬間、熱を孕んだ甘い匂いがチリの鼻を突いた。部屋の奥では、ユエが寝床に倒れ込み、苦しげに肩を上下させている。黒い髪は汗で肌に張り付き、伏せられた耳が小刻みに震えていた。

  「はっ……ぁ、く……っ……! んん……っ」

  

  漏れ出す声は苦しげなのに、妙に甘く耳に絡みついた。

  ユエの内側で暴れ狂う熱に呼応するように、黒い魔力が不安定に弾けていた。周囲の空気が震え、部屋の中に甘く痺れるような匂いが満ちている。

  「ユエちゃん……っ、なんやこれ……」

  チリが駆け寄り、その肩に触れた瞬間——

  「ひゃうんっ……!?な、に……っ、さわら、ないで……っ」

  触られただけで、ユエは弾かれたように体を震わせた。潤んだ赤と青の瞳が、熱に浮かされたようにチリを映す。普段なら絶対見せない無防備な姿に、喉の奥が熱く焼けつく。

  (……なんや、これ。めちゃくちゃ……堪らんやんか。)

  甘い声も、熱に浮かされた視線も、今まで散々見てきたはずだった。けれど、ユエのその姿は、そのどれよりも危うく、理性を削っていく。

  今ここで欲望のまま彼女を抱いてしまえば、暴走した魔力ごと彼女を壊してしまう。

  「……大丈夫や。そんな怯えんでも、チリちゃんがおるから。」

  チリは熱を逃がすように、そっとユエの額へ触れた。けれど次の瞬間、暴走した魔力が弾けるように空気を震わせる。

  「っ……!」

  黒い魔力が、ユエの苦しさに呼応するように荒れ狂っていた。このままでは、本当に彼女が壊れてしまう。

  (……あかん。もう時間ないやん。)

  チリは唇を噛み、潤んだ赤と青の瞳をまっすぐ見下ろした。

  「……ユエちゃん。ちゃんと聞いて。今のあんた、ひとりじゃ抑えきれへん。チリちゃんと契約して、その余った魔力……チリちゃんにも背負わせてや。」

  「……いや、っ……にんげん、なんかと……。はぁっ、ぜったいに……っ!」

  朦朧とした意識の中でも、ユエは頑なに首を振った。その拒絶が、熱に浮かされてなお消えないことに、チリは奥歯を噛みしめた。

  このままでは本当に壊れてしまう。

  「……拒んでも無駄やで、ユエちゃん。あんたを失うくらいなら、嫌われたほうがマシやわ。」

  チリの瞳から、普段の軽薄な色が静かに消える。

  「……っ、んっ……!?」

  ユエが息を呑んだ瞬間、チリはその後頭部へ手を差し入れた。

  「っ……!」

  抵抗する間もなく、強引に唇が重なる。深く、息を奪うような口づけだった。

  驚きに見開かれた赤と青の瞳の奥で、暴れていた魔力が一気に揺らぐ。次の瞬間、熱を帯びた黒い魔力が、堰を切ったようにチリへ流れ込んできた。

  ユエの熱い体温が、唇越しにチリへ伝わる。荒れ狂っていた魔力は、絡み合うようにチリへ流れ込み、少しずつ静かになっていった。

  「……………っ、は、あ……」

  ユエの体から力が抜け、そのままぐらりとチリへ倒れ込んだ。

  「……はぁ、っ…」

  唇を離したチリは、壊れ物に触れるみたいに、ユエをそっと抱き寄せる。体の奥では、混ざり合った魔力がまだ熱を持ったまま脈打っていた。

  「……これで、あんたは一生チリちゃんのもんや。」

  ユエの鼻腔を満たすのは濃く混ざり合ったチリの匂い。もう、森で初めて会った頃の不快な臭いではなかった。体の奥まで染み込んでくるその匂いに、逃げられないものを感じてしまう。

  「……勝手なこと、して……っ」

  弱々しく睨む赤と青の瞳を見下ろし、チリは楽しげに目を細めた。

  「せやな。チリちゃんは強欲やねん。……ユエちゃん、覚悟しぃや?これから毎日、たっぷり可愛がってあげるから。」

  チリの匂いは、もう消えなかった。

  それが契約のせいなのか、それとも——。

  熱に浮かされた頭では、もうわからなかった。

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