Ⅳ.君を壊さないために

  魔力は落ち着いたはずだった。

  なのに——

  「……ん、ぁ……っ……ぅ……」

  荒い呼吸は、まだ収まらない。

  熱に浮かされたユエは、乱れたシーツの上で苦しげに身をよじる。

  ユエには、自分の体に何が起きているのか分からなかった。

  ただ、熱かった。

  身体の芯で、本能が燃えているみたいに熱い。

  息をするたびに思考が溶けていく。

  誰かに触れてほしいなんて、そんなふうに思ってしまう自分が、ひどく怖かった。

  ただひとつ分かっているのは、この男が勝手に契約を結び、自分の首に消えない印を刻んだことだけだった。

  「……魔力はもう落ち着いたはずやのに。どないしたん、ユエちゃん……」

  なのに、ユエの顔は先ほどよりも赤く染まっていた。

  その体からは、甘く――そして暴力的なほど本能を揺さぶる香りが立ち昇っている。

  「……まさか、なぁ」

  確信を得たい一心で、チリはそっとユエの首筋へ指を伸ばす。

  「ひゃうんっ……! あ、ぁ……っ、や……っ」

  指先が触れた瞬間、ユエは弾かれたように背を反らせ、切なげな声を漏らした。

  その反応だけで、チリには十分すぎる答えだった。

  「……やっぱり、そうか」

  指先へ縋りつくように甘く震える反応に、チリの喉がひくりと震える。

  「……発情期、か」

  初めて迎えたであろう熱は、暴走した魔力まで巻き込みながら増していく。

  こんな状態で、まともに理性を保てるはずがない。

  チリの喉が、ごくりと鳴る。

  目の前には、自分との契約に縛られ、逃げ場を失ったユエがいる。

  今ここでその細い体を抱き込んでしまえば、どれほど甘いことか。

  胸の奥で膨れ上がった独占欲が「今、全部チリちゃんのもんにしてまえ」と囁いてくる。

  だが——。

  (……あかん。ここで手ぇ出したら、チリちゃん、ただのクズやんか)

  熱に浮かされ、意識も曖昧なまま、自分を拒むことすらできないユエを抱く。

  それだけは、どうしてもしたくなかった。

  嫌われたくない。

  それ以上に、ちゃんと目を開けたまま、自分を求めてほしいと思ってしまう。

  「……ユエちゃん。……苦しいなぁ。チリちゃんがなんとかしてあげたいんやけど」

  「……はぁ、はぁ……っ。……なにか、したでしょ……。からだが……おかしいの……っ」

  ユエは潤んだ瞳でチリを睨みつける。

  けれど熱に浮かされたその視線は、睨まれているはずなのに、どうしようもなく理性を掻き乱した。

  (……これ、生殺しや。チリちゃん、試されすぎやろ)

  ――けれど、今の彼女は自分で何かを選べる状況じゃない。

  「……わかった。ユエちゃん、ちょっと我慢しぃや」

  チリは立ち上がると、家の隅にあった水瓶から布に水を浸した。

  冷たい布が、ユエの熱を持った肌にじわりと触れる。

  「……ち、り……?」

  「今はこれくらいしかしてあげられへん。……ほんまは、チリちゃんが全部受け止めてあげたいんやけどなぁ」

  チリは苦笑を滲ませながら、刺激しないようにそっと耳の裏を撫でる。

  荒れそうになる衝動を誤魔化すみたいに、いつもの軽い声音を崩さないまま。

  「大丈夫や。チリちゃんがここにおる。……あんたが落ち着くまで、どこへも行かへんから」

  ユエは冷たい水の感触と、チリの手の温もりに、抗えない安心感を覚えていた。

  人間は嫌い。この男も憎い。

  いつの間にか、荒かった呼吸も少しずつ落ち着いていた。

  けれど、この熱の中で自分を繋ぎ止めてくれる彼の匂いだけが、今は唯一の安らぎになっていた。

  [uploadedimage:24645036]