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こころはる 第十二話

  「…………」

  「…………」

  連休も終わり、早くも夏の気配が感じられる折。中間テストを目前に控えた俺は、逸花たちの暮らす213号室での勉強会に誘われ、現在進行形で勉強を進めている訳なのだが。

  「……あれ、数学Ⅰの教科書の試験範囲って」

  「45ページの章末問題まで。発展問題はやらなくていいって言ってた」

  「ああ、そっか。ありがとう」

  「ん」

  なんというか、こう……すごく気まずい。勉強が目的なんだから会話が少ないのも当然っちゃ当然だけど、だとしてもお互いさっきから必要最低限のことしか喋っていない。

  つーか、なんでこの場に言い出しっぺの逸花がいないんだよ。集まって早々「急用ができた」とか言って逸花が退場したせいで、今は部屋に俺と朝来の二人っきり。心は元から委員会で遅れる予定だし、しばらくは共通の知り合いが不在の中での勉強会になってしまう。

  別に、朝来のことが苦手って訳じゃない。悪い奴じゃないってのはなんとなく伝わってくるし、向こうの態度が俺に対して邪険だとか、そういうのは感じない。……だけど。

  勉強に勤しむ朝来の顔を、ちらと見やる。その表情は、集中しているということもあってかいつも以上に”無”の様相を呈していた。

  ……やっぱり、こいつが何を考えているのかが全く掴めそうにない。俺、他人の顔色を窺うのはまあまあ得意だったはずなんだけどな。例の力を手に入れたのもあって、今は尚更。

  何考えてるのか分からないってのはこいつの幼馴染――逸花もそうだけど。逸花が情報量の多さゆえの謎だとしたら、こっちは情報量の少なさゆえの謎って感じ。

  せめて俺に対してどう思ってるのかとかが少しでも分かれば、もうちょっと接しやすいんだけどな。今のところ、なんの話しててもほとんど顔色変わってないし。

  ……ああ、だめだ。一度気になってしまうとそればっかり考えてしまう。

  勉強に集中できず、遂にシャーペンを置いたその時のことだった。今まで自分から言葉を発することのなかった朝来が、俺に視線を合わせて口を開く。

  「なんか俺に言いたいことでもあんのか」

  「へっ」

  「さっきから俺の様子窺ってるように見えたけど」

  「ああいや、特に深い理由はなくて……その、ごめん」

  ……やっちまった、俺。勉強中にジロジロ見られて、いい気持ちがする奴なんていない。相手のことが気になっていたとはいえ、不躾なことをしちまった。

  頭の中で謝罪の言葉を探していると、先に朝来の方が口を開く。しかも、その内容は全く俺の思いのよらないもので。

  「悪いな」

  「……えっ」

  朝来からの、突然の謝罪。今の状況、謝るべきなのはむしろこっちの方だと思うが……。朝来の表情は相変わらずの鉄仮面で、謝罪の意図を探ることも叶わないし。

  「俺、昔から『何考えてるか分からない』って言われがちだから。気遣わせちまったって思って」

  「ああ、なるほど……」

  「最近の逸花みたいに色々な人と仲良く、ってのも俺には難しくってな」

  確かに、話聞いた限り結構正反対の性格してる気がするな、この幼馴染二人組。逸花は部活なんかでも色々な人と関わってるみたいだし、人と仲良くなるのは得意そうだ。……現に、俺みたいな偏屈なやつとも交流してるし。

  そうやって逸花の性格について考えていると、朝来の発言に少し引っかかる部分を覚える。

  「”最近の”逸花みたいに、って言ってたけど、前は違ったのか」

  「ああ。最近、ってのもこの高校来てからのことだし。中学の頃は積極的に人に話しかけるようなタイプじゃなかった」

  「マジか……」

  所謂「高校デビュー」ってやつなのか、それは……。にしても、あのコミュ力ってそんな一朝一夕で養えるもんなのか? だとしたらすげえなあいつ、本当に。

  「ま、悪い変化って訳じゃないしな。驚きはしたけど」

  しばらく間を置いてからそう口にする朝来の表情には、いつもの鉄仮面なんかじゃなく、優しさを帯びた瞳と少し緩んだ口元が浮かべられていた。なんだ、こいつもちゃんと表情変わるんじゃん。

  「お前、逸花の話するときは表情緩むんだな」

  「ん……そうか」

  朝来はどこか嬉しそうな様子で返事をする。こいつと打ち解ける方法、ちょっと分かってきたかも。

  「逸花とは昔から仲良いんだろ。色々、話聞かせてくれないか」

  「いいぜ。勉強にも疲れてきたしな」

  友達の友達という、ちょっと気まずい関係。そんな朝来と二人きりになった時はどうなることかと思ったけど、これは意外と。

  ……意外と、上手くいってる方なんじゃないか、俺にしては。

  人付き合いの苦手な奴同士が二人、そんな難儀な状況を乗り切った俺を褒めたい。今は、そんな気分だった。

  *

  「ただいまー」

  「お邪魔しまっす」

  朝来との休憩がてらの雑談を終え、再び試験勉強に取り掛かった折のこと。玄関から聞こえる、扉が開く音と二人分の声。声の主達がリビングのドアを開けて俺達の前に姿を現すのに、そう時間はかからなかった。

  「ごめんねー。部活のミーティングの後、ちょっと急用ができちゃって」

  「俺はその帰り道で一緒になったから、そのままついてきたんだ」

  声の主――逸花と心は口々にそう言う。

  どこか疲れた様子の逸花の背中には、ネックの部分が長く伸びたギターケースが背負われている。前から軽音部でベースを担当しているとは聞いてたけど、実際に楽器を持っている姿を見るのは初めてだったから、ちょっと新鮮。

  「逸花、そのベース……ってこの匂い、お前まさか」

  「匂いって……ああ、山南くん。気づいちゃった?」

  話しかけようと逸花に近寄った瞬間に抱いた、違和感。うっすらと鼻先に漂ってくるのは、高校生からは発されることのないはずの、あの匂い。

  そして、俺の言葉に対して意味ありげな笑みを浮かべる逸花。その表情は何か悪だくみでもしているかのようで、俺の頭は目の前の猫に対して良くない可能性を導き出してしまう。

  「なんで、お前から……その、煙草の匂いが」

  「……先生には、内緒にしてね」

  ……マジか。ポイ捨てすらしたことないくらい真面目な奴だと思ってたのに、未成年で喫煙……か。あまりのギャップに思考が追い付かねえよ。

  でも、これって明らかに犯罪だよな。煙草は未成年にとって害が多いから、法律で固く禁じられている。特に高校生なんて、まだまだ煙草の吸える年齢に達してないし。

  俺……このまま見過ごしていいのか。友達なら、ここで止めてやるべきなんじゃないのか。逸花みたいな真面目な奴なんだ、誰かに無理やり吸わされてたりするのかもしれないし、ここはやっぱり――。

  「――あんま意地悪すんなよ逸花。山南、本気にしてるだろ」

  「あはは、ごめんごめん」

  呆れ顔の朝来と、あまりに軽いノリで答える逸花。なぜか心までもニヤケ顔してるし、とても未成年喫煙の話題をしている場のようには見えない。

  「そろそろちゃんと説明してやれよ」

  「ごめんね、山南くん。実はこういうことなんだ」

  そう言いながら逸花がカバンから取り出したのは、深い緑色をしたエプロン。そのエプロンが取り出されると、より一層周囲の煙草の匂いが強まった。

  「僕、喫煙OKの喫茶店でバイトしてるからさ。ちょっと煙草臭くてごめんね」

  「え、あ、ああ……なるほど…………」

  逸花はエプロンを再びカバンにしまい、体に消臭スプレーを吹きかける。さっき言ってた部活後の急用って、そのバイトのことか。逸花は平然と言ってのけてたけど、情報のインパクトの強さに未だに上手く呑み込めていない。

  「ていうか、うちの高校ってバイトしてもよかったんだね」

  「部活の先輩が誘ってくれてさ。そうそう、僕にベース教えてくれてる人なんだけど」

  脇に下ろしたギターケースをぽんぽんと叩きながら、逸花は言う。なんか、逸花のことも少しずつ分かり始めた気でいたけど……やっぱ無理だ。こいつの謎、底が見えねえよ。

  「ま、その話は置いといて。今日は試験勉強しないとね」

  「ああ、そうか。勉強会だったな、今日集まった目的……」

  さっきのやり取りの応酬で忘れかけてたな、勉強会のこと。あんまりのんびりしてる余裕もないし、そろそろ取り掛からないと。

  「で、その前に椙山くん。ひとつ聞いていいかな」

  「う、うん」

  逸花はさっきまでとは一転して真面目な顔で、心の目を真っすぐ見据えてそう問いかける。その急な様子の変貌具合に、さすがの心も少したじろいでいるようだ。

  そして俺はこの光景に、見覚えがある。というか、逸花のこの発言に聞き覚えがあるのだ。

  ――じゃ、山南くん。ひとつ聞いていいかな。

  俺が初めてこの部屋を訪れた時に、逸花に投げられた質問。それと同じ問いを心にもするんだとしたら、逸花の次の言葉はきっと――。

  「――コーヒーと紅茶、どっちが好き?」

  *

  「あー、俺もう疲れた……」

  俺達四人が揃って勉強を始めて数時間。数学の問題集と格闘していた心が、机に突っ伏してそう泣き言を漏らした。休憩は少しずつ挟んでたとはいえ、結構な時間集中してたしな。

  「そうだね、もういい時間だし今日はここまでにしよっか」

  逸花が机に置いたスマホの液晶が示す時刻は、夕方18時過ぎ。いつの間にか、食堂に行けば夕飯を食べることもできる時間になっていた。

  「俺、腹減っちゃった。食堂行こうよー」

  「机の上片付けて、俺達の部屋に荷物置いてからな」

  「うー……」

  前から勉強は苦手だって言ってたしな、心の奴。さっきも古文の問題に苦戦している様子で、度々逸花に教えてもらっていた。なんとなく予想はついてたけど逸花は勉強もそつなくこなすタイプで、なんなら教えるのも上手かった。

  勉強会の後片付けをしようと、俺の席の前に置かれたティーカップを持ち上げる。机の上にはマグカップとティーカップがちょうど二つずつ置かれていた。

  「そういえば逸花くん、紅茶ありがとね。すごい美味しかった」

  「どういたしまして。お茶を淹れるのは好きだからね」

  俺に倣ってティーカップを片付ける心が、逸花に対して礼を言う。逸花も紅茶の味を褒められて満更でもない様子……いや、違う。このニヤケ具合は何か変なこと考えてやがるな。

  「やっぱ二人共、すごく仲良いんだね。お茶の趣味まで一緒」

  「なっ……!」

  「ま、山南くんの話聞く限り想像はついてたけどねー」

  「え、何。なんの話」

  「山南くんが椙山くんのことすっごく気にかけてる、って話」

  「え、あ、そうなの? ……へへ」

  こいつ、さっきまでは素直に尊敬してたのに余計なことを……! 心も心でなんだよその反応、逸花に揶揄われてんだぞ俺ら。喜んでんじゃねえよ。

  ……勉強会をする前から不安ではあったんだ、逸花の前で心と一緒になるの。揶揄われることは前からもあったけど、今は。……あの時からは。

  連休の時についていった、心の実家への帰省。そこで知った、心の過去やあいつが抱える悩みの数々。

  悩んでる様子のあいつに対して散々恥ずかしい台詞まで吐いちまったこととか、あろうことか母親の前でも痴態を晒したこととか……思い出したくないようなことも、たくさんあるけど。

  ――初めてなんだよ、誰かとお風呂入るの。

  ――すごく、珍しいんです。心が家に友達を呼ぶのって。

  あの日、あの場所で知ったこと。もしかしたら心の中でも俺は「特別」になれてるんじゃないかって、そんな自惚れめいた期待が俺の胸に芽生えてからというものの――。

  ――俺は心のことを、妙に意識してしまっている。

  この感情の正体がなんなのか、俺にはまだ分からない。でも、この感情は心の優しさに触れたり、こうやって心との関係を意識したりした時に主張を増すようで。

  だから、俺と心の関係について一番よく知る逸花と二人で会うのが少し怖かったんだ。ふとした瞬間に、この得体の知れない感情が輪郭を帯びてしまうかもしれない。もしその輪郭が成す形が、俺……俺達にとって障壁となるものだったとしたら――。

  「――まーた何か考えごとしてる」

  「おわっ……おま、今はタイミング悪いって!」

  「えーどしたの、何考えてたの」

  「……お前には言わねーよ」

  「なにその間、気になるじゃん」

  まだ片付け中だってのにじゃれついてくんなよな。さっさと片付け終わらせりゃいいのに、腹減ってんだろ。

  ……まあ、こんな時に悪い気もしないでいる俺も俺なんだよな。なんか腹立つけど。

  「……ふ」

  そんな折、視界の隅で俺が捉えたのは俺達のやり取りを見て露骨にニヤつく逸花の姿で。文句を言ってもいいんだが……俺はふと、ある悪だくみを思いついてしまった。

  「逸花は俺達の仲が良いとかってニヤついてたけどよ」

  「えっ……う、うん」

  「俺はお前らの方が大概だと思ってるぞ」

  「僕達って……あっ」

  逸花は台所で洗い物をしている朝来の方を見て、ハッとした表情をする。逸花は自分の話をあんまりしないから油断してたかもしれないが、こっちにもさっき揃えた「手札」があるんだよ。

  「朝来とは生まれた頃から一緒だったみたいじゃねえか、なんでも親同士が仲良かったとかで」

  「な、なんでそれを……!」

  「それからは家族同然の仲。小学生の頃には『大人になったら結婚する』とまで言ってたとか」

  「ちょ、ちょっと! 佑、山南くんにそれ話したの!?」

  「話した」

  「話さないでよ!」

  今まで見たこともない焦り具合で朝来を非難している逸花を見るに……どうやら予想してた以上に効くらしいな、これは。

  「他にも色々聞いたぞ、小学校のクラス替えの話とか中学の文化祭の話とか」

  「……すみませんでした」

  「何が『すみません』なんだ?」

  「や、山南くん達を揶揄ったこと……」

  「ふん」

  ま、このくらいで勘弁してやるか。逸花が焦ってる様子は新鮮でなんか面白かったし。

  そして逸花の「山南くん”達”」って言葉に首を傾げてたのを見るに、心の奴は揶揄われてたことには本気で気づいてなかったみたいだな。呑気な奴。

  「仲良いじゃねえか、お前らも」

  「ね、俺も思った」

  ――やっぱ二人共、すごく仲良いんだね。お茶の趣味まで一緒。

  ――最初は正直ちょっと疑ってたけど、本当に仲良さそうねあんた達。

  朝来の言葉で、さっきの逸花の揶揄いと、いつだったか母親に言われた言葉を思い出す。

  ……”仲が良い”、か。俺にはどうにも、馴染みのない言葉だったけど。周りから見ても、ちゃんと”仲良し”になれてるんだな、俺達。

  俺にとって、心はきっと特別な存在で。心にとっての俺も多分そうなんだって、そんな淡い期待も今なら信じられる。

  「……っ」

  「どうしたの、晴」

  「いや、なんでもねえ……大丈夫」

  少し前の自分からは想像のできないほど恵まれた状況を噛みしめ、穏やかな気分に浸っているその時だった。突然何かを主張するかのように、心臓が一度だけ強く脈打って。ただそれだけのことで、咄嗟に出た『大丈夫』って言葉も嘘じゃない。だけど……。

  胸に植わった、輪郭のない感情。未だ正体を明かせずにいるそれが大きく育つ感覚だけが、確かにあった。

  *

  例の勉強会が開かれてから数週間。高校で初めてのテスト期間は、現在進行中のテスト返却をもって終わろうとしていた。

  テストの結果についてだが、正直結構自信はある。ただ、俺が本番に弱いタイプだってのもまた事実で。解答欄がズレてたりとかの凡ミスは幾度となく経験してきた。

  「――村上君」

  不安と緊張、そして少しの期待で頭がいっぱいになっている内に、返却の順番はいつの間にか次にまで迫っていた。俺は席を立ち、いつもよりぎこちない足取りで教卓へと向かう。

  「山南君」

  担任の清瀬先生が俺の名前を呼び、小さな成績表を手渡す。それを乱暴にならないようそっと受け取れば、来る時より気持ち足早に席へと戻る。まだ見たくない成績表は、伏せたまま。

  椅子に腰を下ろして、恐る恐る紙を捲る。最初に視線を向ける先は――右端に書かれた、席次の欄。

  「……え」

  そこに書かれた、「3位(42人中)」の文字。この順位は、思ったより。……思ったより…………!

  「山南くん、嬉しそうだね」

  「おわっ!?」

  声に出さず喜んでいると、クラスで最後に成績表を受け取った逸花が顔を覗き込んでくる。今話しかけてくるのは卑怯だろ、誰だって返却直後はその結果に一喜一憂するもんだ。

  「……思ったよりは嬉しい結果だったけどよ。どうせ逸花は1位とかだろ」

  「ううん、残念だけどその期待には応えられないかな」

  逸花はそう言いながら俺に成績表を見せてくる。少し後ろめたさを感じながらも席次の欄を見てみれば、「4位」の文字が目に入った。

  「俺の方が、ひとつ上……なのか」

  「おー、3位。それじゃ、あんなに嬉しそうな顔するのも納得」

  「お前なあ……」

  結果への反応よりも俺を揶揄うことを優先する逸花に呆れつつも、まあ逸花らしいっちゃ逸花らしいとどこか納得してしまう。でもやはり、それでも腑に落ちないのは。

  「逸花の方が俺よりずっと勉強できるだろ」

  「本番には弱いタイプでさ。まあ、ケアレスミスってやつ?」

  「……そうか」

  普段の授業の様子でも、勉強会の時の教えっぷりでも、逸花が俺より勉強が得意なことは明白だった。だからこそ、この順位が妙に納得できない。注意力もかなり高そうだったから、尚更。

  「山南くんがそれだけ頑張ったってことだって、僕は思うよ」

  逸花は訝しげな俺を察したのか、真面目な面持ちでフォローの言葉を俺に伝える。そんな気配りができるならケアレスミスなんてしないだろうよ、って言葉は、胸に留めておくことにした。

  「それじゃ、テスト返却はおしまい。少し早いけど休み時間でいいからね」

  他のクラスは授業中だから静かにね、と付け加えて先生は教室を出ていく。辺りを見渡せばもうとっくにテスト返却後の雰囲気なんか霧散していて、それぞれスマホの閲覧やら雑談やらに興じていた。まあ、俺達はテスト返却順最後だったからな。みんなテスト結果については一頻り一喜一憂したんだろう。

  それでも、一緒に勉強した関係なんだから心のテスト結果はやはり気になってしまう。それとなく聞きに行こうと心の席へと近づいた、その時のことだった。

  「なあ、水曜日に図書室の受付してる図書委員の子がすっげー可愛いらしいぜ」

  「あ、それ聞いたことある! 見てみてえよなー」

  心の席の周りに座っていた男子数名が、口々に話し始める。タイミング悪いな、ちょうど俺が話しかけようとした時だってのに。

  「三組の島崎とかそいつ目当てに本借りてるらしいぜ、読まないクセに」

  「なんだそれ、バカじゃねーの」

  「今度の水曜さ、俺達も行ってみねえ?」

  「いいなそれ、賛成」

  心に話しかけるタイミングを見計らうために、興味のない会話に耳を傾ける。ただでさえ心と話すのを邪魔されてるってのに、内容まで不愉快なもんで露骨に機嫌が悪くなっていくのを感じる。こいつら、なんのための図書室だと思ってやがる。

  「――てなわけで、椙山も行くよな?」

  「さっきから黙ってるけどよー、可愛い子興味ねーの?」

  「えっ、いや……俺は」

  「行きたいよな?」

  会話の流れが心を誘う方向になり、尚更苛立ちが募る。心の顔見ろよ、露骨に嫌がってんじゃねえか。なんでそんなことにも気づけねえんだよこいつら。

  「そういや心の女のタイプとか聞いたことなかったな。どうせモテるんだろ、お前」

  「確かに、なんなら今も彼女いたりして」

  心は自分のプライベートに踏み込まれるのが嫌いだ。心がそういう話をするのは、気を許した相手だけ。お前らみたいな無粋な奴らには話さねえよ。心が自分の話をする相手は……。

  「あ、あのさ。俺――」

  「――心、お前体育係だろ。今のうちに3限の体育どこでやるか聞いてこい」

  「あ、晴! そうだったね。じゃ、俺はそういう訳だから」

  あまりの苛立ちに耐え切れず、俺は心を連れ出す口実を探して教室の外へと引きずり出す。余計な手間かけさせやがって、せっかく上機嫌だったのにだいぶ頭に来ちまった。

  「ありがとね晴。すっかり係のこと忘れて――」

  「第一体育館。体育の場所」

  「えっ?」

  「大雨の予報だからグラウンドは使わないって、掲示板に書いてあった」

  ……そうだ。実際、今日は心が体育の場所を聞きに行く必要なんてなかった。昇降口の掲示板を見れば、どこでやるかは分かったから。

  「じゃあ、なんで俺を」

  「……お前、詮索されるのが嫌な時はちゃんとはっきり言えよ。ああいう奴らは言ってやらねえと気づかねえから」

  「……! 晴、気づいて……」

  「当たり前だろ」

  ここ数か月、心の色々な表情を見てきた。喜べばピンと立つ耳、嬉しかったらゆさゆさと揺れる大きな尻尾、そして悲しい時は痛ましいくらい翳を帯びる瞳。

  俺なら、気づいてやれる。心が困って、傷ついて、悲しんでいることに。誰にでも平等に向けられる笑顔の裏では、大きな翳が伸びていることに。

  「すぐ戻ったら不自然だから、適当にトイレでも行って時間潰してこい」

  「……分かった。晴、ありがとね!」

  トイレへと向かう心の顔に、もう翳りはない。困っている心を助けられた安心感と達成感で、ほんの一瞬だけ心が安らぐ。

  これで、俺が為すべきことは無事に果たせたはずだ。……だけど、まだ教室には戻らない。

  歩みを進める先は、廊下の奥。俺達の教室である二組、三組、そして四組の教室を通り過ぎれば目的地に辿り着く。

  引き戸を開くと視界に飛び込んでくる、雲に覆われて仄暗い世朱町の景色。教室に向かわず俺が来た場所は、二階以上のフロアに備えられたベランダ。まだ授業時間内なのもあり、普段は賑わっているベランダに人の姿はなかった。

  欄干に凭れかかり、先ほどの出来事を思い出す。それだけで、当時の苛立ちが蘇ってくるようで。

  ……いや、正確に言えば少し違う。今の方がよっぽど苛立ってるだろ、俺。

  俺は心に、あんな奴らに自分のことを話してほしくない。あんな奴らといるくらいなら、俺と一緒にいてほしい。限りある時間を、俺と共に過ごしてほしい。こんな我儘な理由でイラついてる俺にも、また腹が立つ。

  ……ああ、バカみてえだ。自分が抱いてる感情くらい、分かってんだ。もう子供じゃねえんだから。

  妬み、嫉み、独占欲。俺の中に渦巻く感情に、どんどん醜い名前が付いていく。みっともねえったらありゃしねえ、初めてできた親友にこんなに執着して。

  

  こんなの、ただの”友達”に向ける感情じゃないだろ。これじゃ、これじゃまるで――。

  あーあ、あいつら、こんなことに気づかせやがって。せっかく今まで目を背けてきたってのによ。

  正体不明の感情が、輪郭を帯びる。気づかぬふりをしてきた時間が、障壁を成して俺の中で何かを隔てる。それはきっと、俺にとって。……俺達にとって、残酷なまでに障害となるもので。

  「……クソ」

  見れば、土砂降りの雨が俺の視界を阻んでいた。

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