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心に対して抱いていた感情が、一般的な友達に対するそれとは異なっていることに気づいたあの日から数週間。心との気まずい関係――というか、俺が一方的に避けてるだけだが――は今も続いていた。
「トマス・モアの『ユートピア』は、こうした囲い込みの状況を批判した著作であり――」
ふと教室の時計を見やれば、四限の終了時刻まであと五分程度ってところだった。四限が終われば昼休みの時間。殆どの生徒は、仲のいい友達と連れ立って食堂に行く。少し前までは、俺も例に漏れず心と一緒に食堂に行っていたのだが。
……あの日から俺は、心からの食事の誘いを断っている。初めはたまに断る程度だったのが、少しずつあいつと一緒にいることが苦しくなって。今では心が俺を誘ってくることすらなくなった。
まあ、心ならいくらでも一緒に学食に行く相手くらいいるだろうからな。きっと、俺がいなくても変わりなくやっていけるくらいに。
……自分であいつを拒んでるくせに、それが少し寂しいと思ってしまった自分に心底嫌気がさす。無茶苦茶なこと考えてるって、自分でも分かってるんだ。
「――それでは今日の授業はここまでです。日直の方、号令お願いします」
「気をつけ、礼!」
気が滅入るような考えごとに耽っていると、日直の号令を以て授業の終わりが告げられた。なんだか、授業終盤はほとんど集中できなかった気がする。ただでさえ世界史は苦手だってのに。
「それじゃ山南くん、また後でね」
「ああ……ま、またな」
教科書を片付ける気にもならず授業後もしばらくボーっとしていると、後ろの席の逸花から声をかけられる。完全に気分が上の空だったから、おかしな返事をしてしまった気がする。
……距離感を掴みかねているのは、逸花に対しても同じだった。逸花ほど勘の鋭い奴だと、俺の心に対する気持ちを悟られてしまいそうで。
だからこそ、こうして心と距離を置いている俺に対して、逸花が何も言ってこないのが不思議でもあった。ありがたいことではあるんだけど、世話焼きの逸花ならこんな状況放っておかないんじゃないかって思うから。
もしかして……俺の気持ちだとか悩みだとかを全部察した上で黙ってたりするんだろうか。実際に、今の俺は逸花に放っておいてほしいと思ってるわけで。
「はは……そりゃないか」
考えかけた可能性を振り払うように、俺は首を横に振る。ただの恋煩いなら察しくらいつくかもしれないが、相手は同居中の男だぞ。普通そんな想像つかないだろ、普通は――。
「何か考えごとか?」
「ど、お、おわっ!?」
俺にかけられた声の方へ振り向くと、果たしてそこにいたのは目をぱちくりさせる黒兎だった。
「悪い。そこまで驚くとは思ってなかった」
「ああいや、絶望的にタイミング悪かっただけだから。お前が悪いとかじゃない……」
朝来としては一人でボーっとしてる俺に話しかけただけだからな、ただ本当にタイミングが悪かっただけで。……今でも心臓がバクバクしてやがる。
「てかお前、逸花と食堂行ったんじゃ」
「あいつは今日はバンドメンバーと行ったからな」
「ああ、なるほど……」
気持ちを落ち着かせながら、朝来に問いかける。確かに逸花は交友関係広そうだしな、そういう日もあるか。
「で、俺は今日ぼっちな訳なんだけど。山南も最近昼は一人だろ?」
「……まあ、そうだな」
朝来に悪気や他意がないのは分かってるんだけど、やっぱ最近俺が一人でいるのバレてるんだな。俺に向けられたものじゃないにしろ、「ぼっち」という言葉が胸にちくりと刺さる。
……てか、俺が一人でいるってバレてたことに気を取られてたけど。この話の流れって、もしかしなくても――。
「てなわけで、今日は昼飯付き合ってくれないか」
俯いていた顔を上げると、朝来が弁当箱を二つ、ニッと口角を上げながら引っ提げていた。
*
今日の世朱町の天気は快晴。気温は歩くだけでもじんわりと汗が滲むまでに上がっており、春の気分が抜けきらない俺は少し辟易してしまう。数日前に夏服が解禁されたのがせめてもの救いだった。
「じゃ、この辺にするか」
朝来は中庭のベンチの前に立ち止まり、腰を下ろす。他にも幾つかベンチは設置されていたが、この時間はやはり食堂に行く生徒が多いからか人は疎らにしか座っていない。
「つーか、なんで外なんだよ」
「いいだろ、今日天気いいんだし」
「まあ……」
さっきまでは心の中で暑さに文句を言っていたものの、この中庭は意外と。ベンチは日陰にあって陽差しも当たらないし、校舎の隙間を吹き抜ける風は被毛を撫でるようで、なんとも心地良い。
「んじゃ、これ山南の分」
「……ありがとう」
朝来に倣ってベンチに腰掛けると、さっそく弁当箱を手渡される。弁当箱はプラスチック製ながら四角い木の籠を模したようなデザインで、どこか可愛らしい見た目をしていた。
「おお……」
蓋を開けてみて目に飛び込んできたのは、色とりどりの具材が詰め込まれたサンドイッチ。料理に関してはからっきしだからよく分からないけど、手が込んでることだけは確かに見て取れた。
「美味そうだろ、このサンドイッチ」
想像以上にクオリティの高かった弁当に内心テンションが上がっていると、同じく少し機嫌の良さげな声色の朝来が話しかけてくる。可愛らしい弁当箱と嬉しそうな朝来の様子からすると、もしかして。
「この弁当作ったのって……」
「ん、逸花だぞ。喫茶店のメニューの試作だって」
……やっぱり。なんとなく想像はついてたけどさ、逸花が料理もできそうだって。勉強も楽器も料理もこなすとか、本当に多才な奴だな。体育の授業中の様子じゃ運動は苦手そうだったけど。
「逸花は何も言ってなかったけど、明らかに二人分だったからさ。多分山南も誘えってことなんだと思って」
「そうか……」
ここ最近の逸花の様子はいつにもまして不思議だったけど、やっぱあいつなりに俺を気遣ってのことなのかな。何を考えてるのかは相変わらず全く分かんねえけど。
「俺も手伝おうとしたんだけど、俺は昔から依道家のキッチン出禁だったからな」
「はは、なんだそれ」
「……?」
「はは……」
朝来も冗談とか言うんだな、と意外に思って笑ったんだが、朝来はきょとんとした表情をする。まるで、なんで笑われてるのか分からないとでも言いたげな表情だ。
……えっ、こいつマジでキッチン出禁なのか? 料理すると大惨事になる、とかそういう理由だろうか。本当に存在するのかよ、そこまで壊滅的な料理下手って。
「てか、さっさと食おうぜ」
「お、おう」
朝来の料理事情は正直気にはなったが、あまり踏み込んではいけない話題のような気もした。まあ、今は朝来の言う通り昼飯を楽しむべきだろうな。美味そうだし。
箱からサンドイッチを取り出して両手に持つ。レタスやトマト、鶏肉なんかが挟まったオーソドックスな見た目のそれは思ったよりずっしりとしており、溢さないように慎重に口へと運んだ。
大きめの一口で、なるべく多くの具材を頬張るように食べる。口に入れて気づいたが、このサンドイッチ……鶏肉の淡白な食感がかえって野菜の瑞々しさを引き立てていて、更に特徴的なのはドレッシングの味。何か果物を使っているのかさっぱりとしており、それでいて果物特有の甘みは具材を活かす程度に留められている。こ、これは……!
「どうだ?」
「美味い……!」
俺より先に一口食ってた朝来が問いかけてくる。想像以上にサンドイッチが美味かったもんで、若干声のトーンが上がってしまった。すげえよこれ、店出せるレベルじゃないのか。ああそうだ、店に出す試作品だったな。
「そうだろ。結構気合い入れて作ってたしな」
「正直、想像以上だった……」
一頻り感想を言えば、一口、もう一口と食べ進めていく。結構なボリュームがあったはずだが、口当たりが軽く味付けが爽やかなおかげかどんどん食える。こっちに来てから食ったもので一番美味いかも、冗談抜きで。
「山南、ちょっと失礼するぞ」
「な……っ!?」
――カシャ。食事に夢中になっていると、朝来にスマホのカメラを向けられる。気づいたときにはもう遅く、次の瞬間にはスマホからシャッター音が鳴り響いた。
「な、何撮ってんだよ!」
「いや、あまりに美味そうに食うもんだから。逸花に見せたら喜ぶかなって」
……なんだよ、その理由。文句言おうにも言えねえじゃねえか。
「嫌だったら言えよ、すぐ消すから」
「……別にいい。でも、逸花に見せたら消せよ」
「了解」
朝来は上機嫌でスマホをしまい、再びサンドイッチに齧りつく。ほんと、逸花が絡んだ時だけ生き生きとするよなこいつ。普段は気だるげな表情してるくせに。
……それにしても美味いな、このサンドイッチ。心の奴も、きっと気に入ると思う。逸花のバイト先に行けば一緒に食えたりするのかな。
「…………」
サンドイッチを齧ってふと思い出す。俺と心、今そういう状況じゃねえじゃん。このサンドイッチの味も、中庭のベンチの居心地が良かったことも、朝来と少し距離が縮まったって話も……心には伝えられねえのか。
……それは、嫌だな。すごく悲しいことだって、そう思う。
今はまだ、無理だとしても。きっといつか、自分の気持ちに折り合いをつけて、それでも心と一緒に過ごしたいと思えたなら。今日の出来事を笑って話したい。
顔を上げれば、初夏の風がまた俺の頬を撫でた。
「ごちそうさまでした、っと」
俺がまだサンドイッチを頬張っているうちに朝来は先に食事を終えたようで、弁当箱を片付けながらそう口にする。前から薄々思ってたんだけど、俺って食うの遅いのかな。誰かと飯食う時はいつも俺の方が後に食べ終わってるような。
「んじゃ俺、ちょっと飲み物買ってくるから待っててな」
早足で立ち去りながら朝来がそう言い残したから、まだ口の中が食べ物で一杯だった俺は返事代わりに頷く。
食堂で昼食を食べ終えたのか、中庭やグラウンドにはちらほら人がうろつくようになった。ここ数日の中でも今日は際立って天気がいいし、意味もなく外に出たくなる気持ちは分からなくもない。
木陰で読書をする人、グラウンドでボール遊びをする人、遠くの方で楽器の練習をしている吹奏楽部員。みんな、この休み時間で思い思いの過ごし方をしているようだ。
「……ごちそうさま」
最近の俺を振り返ると、なんだか中学の頃に戻ったみたいだ。休み時間にはできるだけ目立たないように教室でじっとして、教室が騒がしければ図書館に行って。
せっかく、ここに来て変われたような気がしてたのにな。友達も……まだ少ないけど何人かできて、放課後や休日にも一緒に遊んだりして。
初めてのカラオケ、楽しかったな。温泉だって久々に入った。勉強会とかも、中学の頃は俺には縁がないと思ってたけど、蓋を開けてみれば楽しかったし。
「はあ……」
久しぶりにため息を吐いて、思う。そういえば初めてここに来た日もため息ばっか吐いてたな。
「まーた何か考えごとしてんな」
「……朝来」
「ほら、これ」
「おわっと」
中庭へ戻ってきた朝来に何かを投げ渡され、慌てて受け取る。思わず手に握ったそれは、じんわりと温かかった。
「ミルクティー……?」
「ん、俺の奢り」
「ああ……ありがとう」
朝来はそう言いながら、片手で器用に缶コーヒーを開ける。カシュ、と気味の良い音を立てながらコーヒーを口に運ぶ様子はやけに様になっており、なんだか年齢不相応に大人びて見えた。
「んで、最近どうしたんだよ。椙山となんかあったのか」
「…………」
やっぱり、気づかれてるよなあ。この高校に来てから殆どの時間を心と過ごしてたのに、急にお互いあんま口を利かなくなったんだから。俺に関しては他に友達も少ないから一人の時間も増えたし、特にな。
「別に言いたくなきゃそれでもいいんだけどよ、お前ら二人共辛そうだから」
「二人共……?」
「ん。椙山も最近、よく一人でいるの見かけるぞ」
……知らなかった。あいつは俺の他にも結構たくさん友達いたはずだろ。俺みたいに一人でいる必要なんて、あいつには……。
「これはあくまで俺の予想なんだけどよ」
朝来がぽつりとそう呟くと、ひと際強い風が中庭を吹き抜ける。風に言葉がかき消されることのないように、朝来は一息置いてから言葉を紡いだ。
「椙山は、待ってるんじゃないか? お前のことをさ」
待ってる……? 心が、俺のことを?
いまいち発言の意味が汲み取れないでいると、朝来が言葉を続ける。
「例えばいざ仲直りしようって時、椙山が友達に囲まれてたらさ、山南は多分遠慮しちまうタイプだろ」
「あ……まあ、確かに」
「だから、わざとスペースを空けてるんじゃないかって。いつでも山南を迎え入れられるようにさ」
朝来の言葉が、俺の胸にすとんと入り込んでくる。分かってるんだ。これは朝来の予想に過ぎなくて、心が実際どう思ってるかなんて本人にしか分からないって。
……それでも俺は、腑に落ちてしまった。心はそういう奴だって、あいつにとって俺はそのくらい特別な存在になれてるんだって、信じたいと思えるから。
「心……」
思わずあいつの名前が口から零れる。久々に口に出したその名前は、どうにも俺の胸を温め、締め付けるようだった。
「じゃ、俺が言いたかったのはここまで。早めに仲直りしろよな」
朝来はそう言うと、荷物を持って校舎の方へと去ってしまった。あれだけ核心を突くような発言をしたってのに、やけにあっさりとしてやがる。
ふとベンチの隣、朝来が座っていた部分を見れば、ある”置き土産”が残されており。それを見た俺は、思わず笑ってしまった。
「……泣いてねーよ」
ベンチにわざとらしく置かれた、無地のシンプルなハンカチ。結果的にその心遣いは空回りだった訳だが、そんな朝来の不器用な優しさは、俺の胸の蟠りを拭うには十分だった。
*
放課後の図書館は静まり返っている。どこに行っても大体賑やかな世朱高校も、図書館ともなればさすがに静かな環境が整っていた。あんまり騒がしいのとか得意じゃないから、俺にとっては有難い空間だ。
昼休みには早く心と仲直りするよう朝来に背中を押されたものの、そんなすぐにあいつにかける言葉が見つかるはずもなく。今寮に帰っても気まずいだけだから、こうして図書館に足を運んだ次第だ。
「……おっ」
特に目的もなく本棚の前をうろついていると、前から気になっていた本が書架に収められているのを見つけた。人気のシリーズだし、貸出中になってることが多かったからなあ。どうやらチャンスっぽいし、今のうちに借りておくか。
普段は適当に見繕った短めの本をその場で読むことが多いけど、この本となると話は別。少し長めの本だし、借りた上でちゃんと読み切りたいしな。
少し上機嫌で、手に取った本を受付カウンターへと持っていく。……んで、カウンターが目に入ったところで、少し嫌な予感がしたんだ。
今日の曜日と耳に入ってくる会話を聞く限り、俺の抱いていた予感は果たして当たっていた。
「ねえ、部活とか入ってるの? 少しくらい君のこと教えてよ」
「いえ……私は仕事中ですので。お答えできません」
「別にいいじゃんかー、じゃあ連絡先は?」
――なあ、水曜日に図書室の受付してる図書委員の子がすっげー可愛いらしいぜ。
いつだったか、クラスの連中が言っていたことを思い出す。受付に置かれたカレンダーを見れば、今日の曜日は……水曜日。声からしても間違いない、受付の子に絡んでるのはあの連中だろう。
……どこまで行っても、俺を苛立たせる連中だな。顔は見えないけど明らかに困ってるだろ、受付の子。
現に、連中が受付の子に絡んでるせいで俺が本を借りようにも借りられないし。図書委員の仕事完全に邪魔してんじゃねえか。どうしたらそこまで他人の迷惑を顧みずに生きられるんだ、まったく。
ここで割り込んで注意してもいいんだが、ただでさえ良くないであろうあいつらの俺に対する心証を、更に悪くする羽目になりかねない。……中学時代の経験からして、トラブルは避けておきたいってのが本音だ。
「あの! 私、……ですので」
「……ふーん、そ」
「なーんだ、行こうぜ」
目の前の気に食わない光景を如何にすべきか悩んでいると、受付の子が何事か言ったのを契機に連中が図書室を去っていく。
……よく分かんねえけど、もう借りに行っていいんだよな。あいつらはどっか行っちまったし。
「これ、貸出お願いします」
「ああ、お待たせしてすみません。貸出ですね、学生証の提示をお願いします」
そうか、貸出には学生証が必要だったんだな。普段は借りたりしないからすっかり忘れていた。
「えーっと……はい、これでお願いします」
「では、お預かりしますね」
受付の子は本と俺の学生証を受け取ると、パソコンに向かって何やら作業を始める。
……女の子の趣味とかはよく分かんねえけど。確かに、この子は世間一般で言う「可愛い子」って感じだ。犬獣人特有の大きな耳がピンと立っていて、なんだか大人しそうな印象を受ける。
「……えっ」
貸出作業を待つ間が手持無沙汰だったから横目で受付の彼女の様子を見ていると、素っ頓狂な声と共に大きな耳がピクリと動く。なんだ、なんか不備でもあったのか。
「山南くん、なの……?」
彼女はこちらの顔を見て、目を見開く。どこかで知り合った子だったか、なんて疑問を浮かべながら彼女の胸の辺りを見て、俺も驚愕した。
胸に付けられた、委員会用の名札。そこに書かれた名前は、見紛うことなく――。
「丸山……!?」
中一の学年末、俺に想いを告げたっきり転校してしまった丸山澪……彼女の名前、そのものだった。
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