13.我慢の末

  ロータリーに止まった車から降り、エレベーターで8階へ上がる。

  車内でも、泣いていた俺をミラー越しに気にしてくれていた清水さんは、エレベーターでも同じだった。

  失礼のない程度にこちらに視線をよこす彼は、千秋さん曰くとても優秀だそうだ。

  だからこそ、今こうして俺の送り迎えをしてくれているのだろう。

  普段誰にも俺を任せない千秋さんが唯一任せても大丈夫と判断した人材。

  つり目と眼鏡のせいか、尖って見える顔つきとは裏腹に、その性格は穏やかで優しかった。

  特にその優しさを、俺は千秋さんが入院してから長く感じている。

  一番奥の扉の前で、清水さんがカードキーを滑らせ、俺が人差し指を認証画面に押し付ければ、カチリと扉が音を立てた。

  部屋に入り、振り返ると清水さんが不安そうにこちらを見ていた。

  まるで、俺がこの後死ぬのではと心配しているような顔だった。

  「……大丈夫です…」

  なんの説得力も無い言葉を清水さんに向けて言うと、清水さんはなおも心配そうにしながら、それでも事務的に頭を下げた。

  「…何かご用があればお呼びください。

  失礼します」

  静かに閉められ、鍵がかかった扉を、俺は少し見つめた。

  ゆっくりと靴を脱いで家に上がる。

  手洗いうがいをして、リビングの入り口に立った。

  「……ただいま」

  その声は誰にも届くことなく消えていく。

  返ってこない返事を期待するのは、何回目だろう。

  そして、それに泣くのも、何回目だろう。

  音もなく溢れた涙は、フローリングの床に散った。

  千秋さんの寝室に行き、布団に潜り込む。

  「……ぐす……」

  匂いが足りないなんて少し変態チックなことを思い、タンスから千秋さんの服をいくつか取り出した。

  服を握り締めて、いもむしのように丸まる。

  少しでも胸の苦しさが、溢れ出す涙が、飲み込まれそうな闇が、絶望がマシになるようにと祈る。

  嗚咽を繰り返すうち、体温が上がりウトウトとしてきた。

  眠りについた俺の頭を、懐かしい手が撫でた気がした。

  お腹が空いて、目が覚める。

  外は明るくなっていた。

  もう朝らしい。

  フライパンで油が跳ねるいい音がする。

  「…おいしそ……」

  待て、いつの間にか寝てたけど、帰ってきた時は1人だったはず。

  …じゃあ、今誰がいる、?

  ……人の家に来てまで料理する泥棒はいないよな…となると…

  ゆっくりキッチンを覗くと、そこには朝食を作る涼介さんの姿があった。

  「……」

  ひとまず安堵しつつ、そのまま見ていたら視線に気付いた涼介さんが優しく笑った。

  「おはよう、貴。

  朝食作ったけど、食うか?」

  頷くと、すぐに目の前にバターを塗ったパンと、目玉焼きが置かれる。

  「いただきます」

  「…い、ただき、ます…」

  その日の朝食は、優しい味がした。

  食べ終わって食器を下げると、洗っとくからいいと言われ、ふと時計を見た俺はハッとする。

  今時計は8時半を示していた。

  慌てて部屋に戻り、制服を引っ張り出す。

  パジャマを脱ぎ捨て、袖を通しながら髪をとかす。

  ズボンの中にワイシャツをつっこみ、腕時計をつける。

  テキパキとネクタイを結んでいたら、鏡越しに部屋のドアに寄りかかる涼介さんが見えた。

  「学校、遅刻する」

  ベストを着ようとハンガーに手をかけた時、涼介さんが俺を呼んだ。

  「貴」

  「遅れちゃうかr…「貴。」

  何、と思いながら俺が振り向くと、涼介さんは眉を寄せていて…

  怒ってるのかと思って俺もは?と思う。

  別に怒られることはしてないし、まぁ少し寝坊はしたけど急げば間に合うのだ

  それをわざわざ邪魔して、涼介さんは俺を遅刻させたいんだろうか。

  「何、早く行かないと間に合わなく…「……今日は土曜だ」

  「…は?」

  涼介さんの言葉が信じられなかった。

  「そんなわけないじゃん、今日は水曜だよ」

  そう言って俺は部屋の壁に掛けられた日めくりカレンダーを指差す。

  涼介さんはそれに手を伸ばし、土曜まで切り取る。

  「…土曜だ」

  「で、でも…」

  そんなわけないんだ。

  だって昨日、パン屋が閉まっていたんだから。

  いつも通る駅までの道のパン屋の定休日は火曜だ。

  昨日閉まっていたのだから、今日は水曜なはずなんだ。

  なのに…

  「これで信じるか、ほら」

  見せられたスマホの日付部分は、10月7日……土曜日。

  俺は混乱して、ベッドに座った。

  その隣にそっと腰掛けた涼介さんは、心配そうに眉を寄せて俺を見る。

  「……大丈夫か?」

  「…わかんない…」

  「…今は何月だ」

  分かるはずの問い。

  さっき見た。

  答えられるはずなのに…あれ?

  「…わ、かんない…」

  「…何曜だ」

  「わかんな……っごめんなさ……」

  どうして、覚えてないんだろう。

  「謝らなくていい。

  疲れてるんだろう、少し眠りなさい。」

  そう言って布団に入らされ、俺は大人しく眠ることにした。

  目が覚めたら、きちんと覚えていられることを祈りながら。

  「……たかかず…」

  誰かが呼んでいる。

  誰?

  「……貴和」

  千秋さん?

  「誰だ?それ」

  ……貴方は…、

  「…お前が悪いんだぞ?」「お前だけ幸せになるから」

  やめて…これ以上壊さないで…もう十分壊れてるよ…っ!

  「“die.”」

  やめて、やめて…苦しい…つらいよ

  たすけて……たすけて、ちあきさん…

  「……貴和…」

  ちあきさん…たすけて…!

  「…浮気してたの?」

  ……ぇ…?なんで…ちがう!

  おれはずっとちあきさんのことまって…「信じてたのに。

  …酷いよ…」

  なんで…うわきしてないよ…おれじゃない!

  俺そんな事しないよ!

  ねぇちあきさん!まってよ、行かないで!

  俺をひとりにしないで!!

  「…さようなら、貴和」

  「いやだぁっ!!」

  飛び起きたそこは、千秋さんの寝室だった。

  俺の声に涼介さんが慌てて部屋に入ってくる。

  「貴、どうした、何があった」

  「はぁ…はぁ…はぁ…」

  呼吸が荒い。

  びっしょりと汗をかいている。

  寒い、怖い、寂しい、辛い、苦しい……

  酷い?酷いのは千秋さんじゃないか

  俺はずっと待ってたのに!

  ずっとずっと待ってたのに…!

  千秋さんの目が覚めるのを

  また2人で笑い合えるのを…!

  なのに…なのに……

  『ごめんね……君は…誰かな…?』

  俺だって信じてたよ!

  千秋さんはいつか目覚ますって!

  信じてずっと……ずっと……!

  「ああ"ああ"ぁぁ!!」

  「っ貴、たか、!」

  「ちあきさんのばかああぁっ!!」

  「落ち着け!どうしたんだよ、!」

  「うああああぁぁあ"!!」

  俺は、我慢していた苦しさを出し切るつもりで、泣き叫んで暴れた。

  俺を抑えている涼介さんの言葉を理解できるくらいに回復するまでずっと。

  千秋さんに向けて毒を吐いていた。

  続く