――それは、ちょうど日付が変わろうかという深夜のことだった。
ふんふんふふーん、とご機嫌そうな鼻歌が廊下から聞こえてきて、机に向かっていた猪獣人の青年は耳をぴこぴこと動かした。
猪のいる6畳半の狭い部屋は、壁が薄くて廊下の物音まで筒抜けなのが玉に瑕なのである。
(ありゃあ。タイさん、まーた酒飲んで帰ってきよったな……)
猪は声の主を思い浮かべつつ机から身体を起こす。彼が顔を上げると、猪獣人特有の前に伸びた鼻の上に乗った小さな丸眼鏡が少し揺れた。褐色の被毛に包まれた身体は、猪という種族柄何も着てなくてもずんぐりとしているのに、今の彼は半纏など羽織っているので余計にまん丸に見える。
もっとも、本人はこの太り気味の体型はもう自分の体質だと思ってダイエットは諦めてしまっているのだが。
――猪上仙治郎(いのうえせんじろう)。
この部屋の住人にして、とある大学の2年生だ。週明けに提出期限が迫っているレポートを仕上げようと、図書館から借りてきた資料を積んでうんうんと頭を捻っていたところであった。
しかし、それも恐らくここまでである。
(ま、今日は割と進んだ方やし、ここいらで切り上げとこか)
どうせ今夜はもう勉強できそうもない。そう考えて猪上は、手にしていた筆記具を机の上に投げ出して、部屋の入り口に目を向けた。
一方、廊下から聞こえてきていた鼻歌の音源は、猪上の方へ少しずつ近づいてきたかと思うと、部屋の前でぴたりと止まる。そして深夜という時間帯への遠慮もなしに、ばん、と勢いよくドアが開かれた。
「おーう、イノセ~ン!タイさんのお帰りじゃぞ~!」
猪上のあだ名を呼びながら、室内に雪崩れ込むように入って来た大きな影。
その正体は大柄な熊獣人である。被毛は猪上よりやや暗めな茶褐色、ワイシャツ姿にネクタイ、右手に酒瓶という出で立ちの熊は、のしのしと猪上に向かってきたかと思うと横からがばりと抱きついてきた。
「わっ」
予想外の熊の行動に、思わず猪上の口から声が漏れる。
「なーにをマジメぶってこがぁなステキな夜におべんきょなんかしょーんならイノウエ~!今夜はお月さんがえれぇキレイなんで~!」
熊はそう言って猪上の頭をがしがしと掻き回しながら、がははは!と豪快に笑う。猪上も決して身体が小さい方ではないのだが、熊は巨漢というに相応しい体つきで、組み付かれてしまうと簡単にはふりほどけもしない。
熊の目は充血している上に、猪上の顔の近くで吐かれる息からはアルコールがぷんぷんと匂った。どこからどう見ても酔っ払っている。
「ちょっ、タイさん!やめてぇな!まーたバイト上がりに飲んで来たんやろ!」
猪上の嫌がる声もなんのその、熊は猪上から離れると一向に意に介していない様子でがっはっは!と開けっ広げにまた笑う。
「まーまー!そがぁに気にせんで!ワシ、これからちぃと飲み直すけえ付きおぉてくれん?」
そう言って右手に持った酒瓶を自分の顔の横でフリフリと揺らす。
熊の屈託の無い笑顔を見た猪上は大きく溜め息をついて、
「ボク、やらなアカンレポートがあんのですけど……タイさんに誘われてしもたらしゃーないですね……」
と暗い表情で頭を掻いた。
そうは言っても、猪上は鼻歌が聞こえてきた時点で熊の酒盛りに付き合う羽目になることは予想していたので、それはあくまでもポーズなのだけれど。
だが熊は、猪上のわざとらしい溜め息を本気のそれだと思ったようだ。んがっ、と大口を開いてあからさまにショックを受けた顔をした。
「いっ、イノウエくんっ?何ならその溜め息は!?ひょ、ひょっとしてワシと飲むん嫌なん!?」
猪上に嫌われたと思ってあたふたとしているデカい熊の名は、日ノ隈 大晴(ひのくまたいせい)といった。
この部屋のもう一人の住人にして、猪上と同じ大学に通う二つ上の先輩である。無類の酒好きの日ノ隈にとって、外で飲んできてはこの部屋で飲み直すのが日課みたいなものだった。
「いやいや。ボクは嫌なんて一言も言っとらんですよタイさん」
「ほ、ほうじゃろう?」
猪上の言葉に日ノ隈はほっとしたように息を吐き出す。
酔っ払っている時の日ノ隈は感情表現がどストレートになるので、ついつい猪上は面白がってからかってしまう。
だから今夜もこう言ってやった。
「嫌やないんやけど、ちーとばかしタイさんの絡みは鬱陶しいですねん……鬱陶しいですねん……」
「な、何ならそら!?なんで2回言うんじゃ!?」
猪の芝居がかった暗い声に、熊はガーンといった擬音が聞こえてきそうな様子でその場にへたり込む。
「……き、気づかんかった……2年も一緒に暮らしてきて……イノセンがワシのことをそがぁな風に思うとったなんて……」
本気で凹んでいる熊がちょっと可哀想になって来た猪上は、おもむろに椅子から立ち上がると、棚からグラスを二つ出して日ノ隈の前にある卓袱台に置いた。
「いやタイさん、真面目ですかい。そんなん冗談に決まってるやないですか。ジョークジョーク!」
「え」
「ボク本気で鬱陶しいて思ったら、寮長に言うて部屋を変えてもらってますわ」
にやにやと笑いつつ猪上は、日ノ隈の持ち帰った酒瓶を手に取り栓を開ける。「さ、飲みましょタイさん!」
とくとく、と日ノ隈の前に置かれたグラスに酒を注いでやると、熊はしずしずと顔を上げた。だがその目つきはやや恨めしげである。いや、もしかすると酒のせいで据わってしまっているのかもしれないけれど。
「……ホンマにジョーダンん?」
疑わしそうな日ノ隈の声に、猪上は真顔を作って応えた。
「あったり前田のクラッカーやないですか!……そもそもボク、大・大・大好きですもんタイさんのこと」
後半を澄まし顔で言ってやると、熊の被毛がぼんと逆立った。酒のせいでよく分からないが、きっと顔も真っ赤になっているに違いない。
「な、な、な、何を言うとるんじゃわりゃぁ!もー!後輩の癖に先輩からかうなぁ止めてほしいわ!」
照れ隠しなのか、日ノ隈は大声を上げつつばしばしと猪上の背中を叩いてくる。後輩に慕われるのが日ノ隈は好きなのである。あまりにもわかりやすい性格なため、猪上に限らずこんな風に後輩にからかわれたりすることが多いのだが。
そう。
あくまでも日ノ隈が喜んでいるのは、先輩後輩としての関係だ。
それ以上でもそれ以下でもない。
(……ホンマは違うんねんけどな、タイさん……)
それは心の中でしか呟けない猪上の本音だった。
二人の住むここ『雅山寮(がざんりょう)』は、とある大学の学生寮で、計100名強の男子学生が暮らす大所帯である。この寮では一部屋に二人が住むのが原則であり、その組み合わせは入寮時のくじ引きで決定される。そのため、工学部4年の日ノ隈と教育学部2年の猪上のように、学年も学部も違う者同士で住むことがほとんどだった。
それだけではない。
猪上と日ノ隈は、年齢も、出身地も、部活も、趣味も違う。共通点と言えば酒が好きだということくらい。
同じ大学とはいっても学生数は総勢1万人にも上るので、猪上がこの寮に入った際にくじ引きで日ノ隈の部屋をひかなければ、きっと知り合うはずも無く、下手をすれば顔を合わせることも無かったかもしれない。
そんな偶然が生んだ出会い。
束の間の、同居人という二人の関係。
奇跡にも近い確率の中で日ノ隈に出会えたことに、猪上は 時々感謝をしつつ時々恨めしくも思う。
(――キミがイノウエくん?……成程、イノウエセンジロウじゃけぇ、“イノセン”って呼んでもええか?……よっしゃ決まりじゃ!よろししゅうな、イノセン!)
入学したてで挨拶へ行った時に、そう言ってニコニコと笑っていた日ノ隈。
あれから猪上は、何度その顔を思い出してはため息をついただろうか。
――その瞬間、猪上は目の前の大柄な熊に一目惚れをしてしまったのだった。
(……なあ、タイさん)
頭を掻いて照れている日ノ隈に、猪上は心の中で呼びかける。
(……タイさんが思っとんのと違ってな、……ボクは本気でタイさんのことが好きなんや……)
自分は男で、相手も男だというのに。
猪は目の前の熊に惚れていた。
そんな叶わぬ想いを告げることも出来ぬまま、あと1か月足らずで日ノ隈は大学を卒業してしまう――。
[chapter:離れ離れのスイングバイ]
1
「――タイセイッ!また泥酔して帰ってきたじゃろ!何度やるんじゃワレはッ!」
翌朝の朝食──といっても午前10時近くなので朝といっていいのかどうかわからないが──を食べに猪上が寮の食堂に降りていくと、そんな吼えるような怒鳴り声が耳に入ってきた。大きめのテーブルに大小二人の獣人が座っているのが見える。
雅山寮の1階は、玄関と上階への階段を繋ぐ廊下がある以外は、その間取りのほとんどが広々とした食堂になっている。庭に面した南側はほぼ全面が床から天井近くまでの掃き出し窓になっており、レースのカーテン越しに柔らかな日差しが差し込んでいた。
食堂内には寮生たちが集団で食事が食べられるようにと、数十人は座れるくらいのテーブルと椅子が並べられていて、食事時や週末の夜ともなればどこからともなく寮に住む獣人たちが集まってきてワイワイと賑やかになるのが常である。だが休日の午前中ともなると大抵の者たちは部活やサークル活動やバイトに精を出しているか、もしくは友人たちとの余暇に興じているらしく、今もがらんとした食堂にいるのは、猪上を除けばその二人の獣人だけだった。
正面の席に座っている大きい熊獣人は日ノ隈 大晴(ひのくま たいせい)である。
猪上が起床した時には部屋にいなかったので、既にどこかへ出掛けた後かと思っていた。だが熊の皮毛が寝癖でボサボサなところをみると、日ノ隈もまだ起き抜けらしい。目も半開きでとろんとしており、いかにもまだ眠そうである。
猪上と共に早朝の午前四時頃まで飲んでいたので、それも当然だろうが。
「……や、や。で、でもなぁテツ、先輩たちもみんなよぉ酒飲んで帰ってきとったじゃろうが。なんでワシだけこがぁに言われんにゃぁいけんのよ」
日ノ隈の言葉をから察するに、どうやら昨晩酔って寮に帰ってきたことをもう一人に咎められているらしい。
「黙れやタイセイ!わりゃあ帰ってくるとぶちうるそぉするから寮内で問題になっとんじゃッ!」
そう怒鳴って掌でばん!とテーブルを叩いたのは、猪上に背を向けて座っている犬獣人である。
種族はミックス犬種だがハスキー犬の血が色濃いらしく、ピンと立った凛々しい耳に、灰色の皮毛が特徴的だ。暖かそうな厚い毛皮は後ろから見てもふわふわとしている。彼の体格は、小さいとはいっても日ノ隈と比べればという話で、男子大学生としては十分及第点だろう。
犬の青年は猪上の気配に気づいたらしく、ふいとこちらを振り向いた。狼のような精悍な顔立ちだが、目元だけは黒く染まった隈取のような模様をしておりひどく人相が悪い。
日ノ隈にテツ、と呼ばれていた悪人面の犬の名前は三楠 徹真(みくすてつま)といった。
猪上にとっては日ノ隈と同学年の先輩である。さらに三楠はこの寮のリーダー、つまりは“寮長”と呼ばれる存在でもあった。
「おはようございます、寮長」
猪上が眼鏡を直しつつ挨拶をすると、
「おうイノセンか、おはようさん。わりゃあ今日も随分と丸い身体しとるの。また太ったんと違うか?お?」
三楠もぶっきらぼうに挨拶を返しつつ、そんな軽口を叩いてくっくと口の端を吊り上げて笑った。
彼は顔つきの凶悪さとヤクザ映画のような方言のせいで怖がられることも多いが、根はやさしい人物である。……ちなみに、苦学生の多い寮の住人には珍しい彼女持ち。
一方、寝ぼけ眼の日ノ隈が、
「そ、そがぁにうるそぉしょったか、ワシ……?」
頭を掻きながら恐る恐るという様子で尋ねると、三楠は日ノ隈の方に向き直り
「うるさいに決もぉーとるじゃろうが!廊下で大声で歌なんか歌いよって!ワシんところに朝から文句が来まくっとるぞ、こんのアホ熊ッ!!!」
と吼えた。
びりびりと響く寮長の犬獣人の怒声に、日ノ隈はしゅん、と身体を小さくする。
昨晩の日ノ隈は途中までは猪上と一緒に部屋で大人しく飲んでいたのだが、午前三時頃にはだいぶ酔いが回って来たらしい。そのうちフラフラと廊下にまろび出て、その場で気持ちよさそうに歌い出してしまったのだった。
(二人で飲んだぁ~あのコーヒーをぉ~!)
(だー!?ちょ、ちょっと!タイさんタイさん!アカンて!今何時だと思ってますのん!?)
(君はぁ~今でも~覚えているか~い!)
(アカン!アカンてばタイさん!正気になってや!!)
焦った猪上は、カラオケよろしく熱唱している熊を羽交い絞めにして、引きずるようにしてどうにか部屋に連れ込んだのだった。だが、その間に相当数の寮の住人の安眠を妨害したことは想像に難くない。
日ノ隈は、どうやらそのことで三楠に叱られていたところだったようだ。
犬に叱られて、ガタイの大きな熊がしゅんとうな垂れている様はなかなか面白い。
「ま、まあまあ寮長。タイさんも反省しとるみたいですし、それくらいで……」
がっくりと肩を落としている日ノ隈を見かねて、猪上は日ノ隈をかばおうとするが
「ええんじゃてイノセン!こいつは昔っから反省するフリだけしてちっとも改善せんダメ熊なんじゃ!多少厳しく言ったらなこいつのためにならんのよ!のうタイセイ!反省せい!このアホンダラ!」
と三楠の怒りは全く鎮火せず、ぎゃんぎゃんと怒鳴りたてる。猪上のフォローは却って火に油を注いでしまったような形になってしまった。
「す、スマンです、テツ……」
と日ノ隈はより一層うな垂れた。
日ノ隈と三楠の言葉づかいからも分かる通り、この二人は西の地方の同郷の出だ。しかも実家も近所の幼馴染で、20年来の付き合いなのだという。幼稚園から小・中・高と全く同じところへ通い、同じ大学に進学した上に同じ寮に住んでいるという話だから、とんだ腐れ縁である。
だがこんな風に、いつも笑顔で朗らかだがどこか抜けている日ノ隈と、大抵が不機嫌そうで口は悪いがしっかり者の三楠は、傍から見ていてもまるで水と油のようだった。だがこの二人は妙にウマが合うらしく、よく二人で遊びに出かけたり、食堂で酒瓶を挟んで話し込んでいたりする姿を見ることがよくあった。
そして今日のように、何かしらをしでかした日ノ隈が三楠に叱られているのも雅山寮の住人ならばしょっちゅう目にする光景でもあった。ある意味、二人は互いにそれだけ遠慮なしに言い合える相手なのだろう。
「ったく。タイセイは昔っからとらぶるめーかーじゃの。……まあええわ、ワレも一応反省しとるようじゃし」
三楠は溜め息をつきつつそう言うと、日ノ隈の顔に指を突きつける。「じゃがな二度目はねえぞタイセイ!また性懲りもなく深夜にやーやーつばえりょーたらワレは卒業待たずして退寮処分じゃけえ!ええな!わけりゃあ返事せい!」
対する日ノ隈は、右手を頭に当ててびしりと敬礼の構えをとった。
「は、はいっ!テツ寮長!二度とせんです!」
「……よっしゃ。したら許したるわ。」
大柄な熊の威勢の良い返事に、悪人面の犬は満足そうに小さく笑った。
一応二人の話がまとまった様なので、猪上もホッとして遅い朝ごはんにしようと寮生共用の冷蔵庫を開く。確か、作り置きして冷凍しておいたカレーが余っていたはずだった。
だがその横目でちらりと熊と犬の様子を伺うと、急に元気になった熊がテーブルの上に身を乗り出したのが見えた。
「のうのう、テツ。げんに先週駅前に新しいラーメン屋ができたけえ、もうちぃとしたら食いに行かんか?」
ミックス犬の笑みを見て、機嫌が直ったと思ったのかもしれない。三楠に嬉しそうに話しかける日ノ隈の言葉を聞いて、悪人面の犬はがくりとずっこける。
「……タイセイ、フツー叱られた直後に叱った相手を飯に誘うかの……?ホンマに反省しとるんかワレは……」
呆れた様な顔の三楠とは対照的に、日ノ隈はにいっと笑ってみせた。
「しとるしとる!じゃがそれとこれたぁ話が別じゃけえの」
熊の屈託の無い顔を見て、三楠はまた溜め息をついた。
「……ホンマ、タイセイとおるとちぃとも退屈せんわ……」
「ほうじゃろう?」
「何嬉しそうな顔しとるんじゃアホ熊!褒めとらんし!皮肉じゃ皮肉!」
再び悪人面の犬はぎゃんぎゃんと吠える。しかし日ノ隈はニコニコとしたままだった。
やはり、なんだかんだで二人は仲が良いのだ。三楠が日ノ隈に口うるさいのも、危なっかしい幼馴染を想ってのことなのだということくらいは猪上にも分かる。
当の日ノ隈はそのことをあまりよく理解していないようだが。
「……しかしスマンの、タイセイ。ワシは昼から約束があるけえ」
だが今日の三楠はそう言って断った。
「なんじゃ、最近付き合いが悪いのテツ。何があるんじゃ」
誘いを断られてぶう垂れる日ノ隈から、三楠は目を逸らすと少し決まり悪そうに頭を掻いた。
「や、まあ。今日は、アイツと、ちぃと、な」
「アイツぅ……?」
歯切れの悪い三楠の返事に、日ノ隈は数瞬だけ眉間に皺を寄せるが、すぐに何かに思い当ったように顔を輝かせた。
「あっ、テツ!まーたハドちゃんと会う気じゃろ!先週も会うたばかりじゃろうが!」
ハドちゃん、という名前には猪上も聞き覚えがあった。猪上は冷凍カレーの入ったタッパーを持ったまま二人に向き直る。
「なんすかなんすか寮長、またデートですか~?なんや最近全然ボクらに構ってくれへんやないですか~?」
猪上も、三楠に向かってニヤニヤと笑いつつそう言ってやった。
ハドちゃんこと波戸(はど)こそが三楠の彼女の苗字である。猪上には面識は無いが、三楠と日ノ隈と同じ学科の女生徒なのだとか。
つまりは、三楠は彼女とデートの約束があるということか。
「な、なんじゃイノセンまで。付き合うとるんじゃけぇ週末に会うくらい別にええじゃろ!」
突然の猪上の参戦に、三楠は面食らいながらもそう言い返す。
だが、
「ええわけあるかい!テツ、最近ワシとの飲みも断りよるし!20年も一緒におってこがぁな薄情な男だとは思わんかったわ!」
日ノ隈が憤懣やるかたなしという調子で言い返す。
最近付き合いの悪くなってしまった幼馴染に、結構うっぷんが溜まっていたらしい。
「せやせや!ボクもミクス寮長ってもうちょっと義理堅い人やと思ってましたわ!最近寮にもあんまりおらんし!ボクらより女を取るとは思わへんかったです!」
猪上も面白がって、日ノ隈に追従して三楠を責め立てる。
実際、猪上が入寮した当初は寮生と遊んだり飲んだりすること多かった三楠だが、彼女が出来てからと言うもの、そんな機会もめっきり減っていた。
二人に責められて、さすがに三楠もバツが悪そうな顔をして
「なんなんじゃ二人とも急に……そ、そがぁに言わんでもええじゃろが……」
とぶつぶつ呟いていたが、急に反撃の糸口を見つけたのかニヤリと笑ってこう言った。「……まあええわ。彼女もおらん独りもんの醜い嫉妬に付き合うたるほどワシも暇とは違うけぇの!」
そして、悪人面の犬はもう話は終わりだとでもいうようにさっさと席を立ってしまった。
「なっ……!だ、誰が嫉妬なんかしょーるか!」
「ちょっと寮長!なんてこと言うんや!醜いて!ひど!」
日ノ隈と猪上は目を剥いて反論するが、その姿は完全に負け犬の遠吠えである。
恋人無しと恋人持ち。
負け組と勝ち組。
持つ者と持たざる者。
……今ここに、その序列がはっきりとしたのだった。
「おめぇらも寂しかったら恋人の一人でも作りゃあええんじゃて。……まあ、阿呆な熊とデブな猪には一生無理かもしれんがの!」
得意の毒舌でそう言い残すと、なっはっは!と笑いつつ三楠は食堂を出て行ってしまった。
あとに残されたのは、未だに寝癖が直っておらず寝間着姿のままの冴えない二頭のアホ熊とデブ猪――もとい、日ノ隈と猪上であった。
「わ、我が幼馴染ながら、なんちゅう言い草……!」
日ノ隈はぎりぎりと歯を食いしばると猪上の方を向いた。「イノセン!ここは『恋人おらんもん同盟』にワレも加入じゃ!」
「なんですかそれ!?ボクはイヤなんやけどそんな哀しい同盟入んの!」
日ノ隈の突然の勧誘に、猪上は悲鳴を上げる。
「イヤも何も、イノセンは加入条件を立派に見たしとるけえ!」
そう声を張り上げてから、日ノ隈は猪上に向けて下手くそなウインクをした。「……そんなわけで、まずは加入記念にラーメンでも食いに行かんかの?」
熊の発言に、猪上はびしりとツッコミを入れる。
「結局それやないですかい!……まあ、せっかくのお誘いやから行きますけど……」
だが口ではそうしぶしぶといった雰囲気で言いながらも、猪上は自分の頬が緩みそうになるのを感じた。
日ノ隈に食事に誘われて嫌なわけが無かった。
しかも二人きりだ。
――むしろ嬉しい。すごくすごく、嬉しい。
(なんや、ボクとタイさんでデートするみたいやん……)
猪上は温めようとしていた冷凍カレーを冷蔵後に戻すが、つい嬉しい時の猪獣人の性質として鼻がひくひくと動いてしまった。
それを目ざとく見つけた日ノ隈が首を傾げる。
「……なんじゃイノセン。随分と鼻がフゴフゴいうとるの。そがぁにラーメン食いたかったんか?」
自分が浮かれているのが日ノ隈にバレたと思って、猪上は慌てた。
咄嗟に言い訳する。
「た、タイさんが行きたいて言うとるのは駅前の新しい店でっしゃろ?ぼ、ボクも丁度あそこ行ってみたかったんですわ!やー楽しみですわー!」
猪上の誤魔化した返答に日ノ隈は苦笑する。
「まあまだワシも行ったことない店じゃけぇ、美味いかどうかわからんけえの。あんまり期待しすぎんほうがええかもしれんぞぉ?」
大柄な熊は目を細めてからからと笑った。
……特別に変には思われなかったようだ。
[newpage]
2
猪と熊が並んで目当てのラーメン屋に行くと、まだ昼前だというのに既に行列が出来ていた。
「あらー。タイさん、めっちゃ混んでますね」
猪上は灰色のダッフルコートに茶色のマフラーを巻いていたが、腹が出ているせいでコートのボタンはパツパツで、今にも弾け飛びそうである。
「ほうじゃの……この時間ならまだ空いとろぉて思うたんじゃが……」
一方、猪の横を歩く日ノ隈は、部活用のえんじ色のジャージに同じくマフラーを巻いてはいるものの足元は素足に下駄である。どう見ても寒そうだが、普段から裸足でやる競技をやっていたのであまり気にならないらしい。
店の前に出来た行列は、十数人はならんでいるだろうか。
開店したばかりということで物珍しさもあろうが、もしかしたら既に人気店なのかもしれない。
そこで、
「……お?」
と、急に日ノ隈が片手をぶんぶんと振り出した。
行列の中に知り合いを見つけたらしい。
「トラー!リュウー!ワレらぁも来とったんかー!」
日ノ隈の嬉しそうな声と、振り向いた二対の大柄な獣人を見つけて猪上にも分かった。
雅山寮の住人である、大学三年生の獅子と虎の二人が並んでいたのだった。
「あれ、タイさんとイノセンじゃないすか。ちわっす」
そう言って礼儀正しく頭を下げたのが、日ノ隈が“トラ”と呼んだ立派な体躯の虎獣人の青年で、その名を黒嶋 長虎(くろしまながとら)といった。その種族と名前から、そのまま“トラ”と呼ばれている。意志の強そうな、真っ黒な太眉が特徴的な虎獣人の青年だった。
「……っす」
その黒嶋の横で、伏し目がちに会釈したこれまた大柄な獅子が“リュウ”である。本名が獅子ヶ原 蒼龍(ししがわらそうりゅう)という古めかしいもので呼びにくいので、寮生たちには短く“リュウ”と呼ばれることが多かった。あまり口数は多い方ではないが、黄金の鬣はさすが百獣の王とでもいうべき威厳があり、物静かだが不思議な存在感のある獅子獣人だった。
二人とも柔道部なので、校名と大学のシンボルマークを背負った揃いの紺色のジャージを着ていた。黒嶋と獅子ヶ原は仲が良く、寮の内外でこうしてよく連れ立って行動しているのである。
「トラさんリュウさん、こんちわっす」
二人とも日ノ隈にとっては後輩だが、猪上には先輩なので頭を下げて挨拶をした。
虎と獅子が猪上に視線を移す。
「ようイノセン。お前また少し太ったんな?わはは」
「……イノセン、丸みが増したな」
朗らかな虎と無口な獅子にも、先程の三楠寮長と同じことを言われて猪上は思わず自分の身体を見下ろした。
(――ぼ、ボク、最近そんな太ったやろか……?)
言われてみれば、コートのボタンが少しきつくなったような気もするし、ベルトを締めるのも呼吸を整えなければ辛くなったような気がする。レポートや試験続きだったとはいえ、家にこもってばかりだったのがまずかったかもしれない……。
そう考えて猪上がお腹をさすっていると、
「――そうやってすぐに気にしちゃうから可愛いんなー、イノセンは。だはは!」
と黒嶋が言った。
その声に猪上がハッとして顔を上げると、太眉の虎はこちらを見下ろしてニヤニヤと笑っていた。その隣では、獅子ヶ原が口をつぐんでプルプルと震えている。どうやらこちらも笑いをこらえているらしい。
かつがれたのだ。
「ちょっと!二人ともからかわんでくださいよ!」
猪上は思わず抗議するが、
「なっはっは!イノセンがいつも風呂場で体重計に乗っとるとこ見とるから、ついな!」
と黒嶋は大笑いして悪びれない。
獅子ヶ原の方はマズルに手を当ててまだ肩を震わせている。
この獅子の青年、普段は無口で物静かなのだが少々笑いのツボがおかしいのである。ムキになっている猪上が余程面白かったらしい。
「まーまー、そがぁに怒らんでイノセン」
上からぽん、と頭に柔らかいモノが乗せられた。日ノ隈の大きな手だった。そんな些細なことで猪上の心臓が跳ね上がる。
思わず日ノ隈の顔を見上げると、大柄な熊はまたにっこりと笑った。
「……イノセンはのぅ……ワシもちぃと丸っこい方が似合うとるて思うけぇの!がはは!」
「なっ!ちょっ!タイさんまで!」
猪上が声を上げると、今度こそ我慢しきれなくなった獅子がぶほぉ、と噴き出す。
さらには黒嶋も
「なっはっは!よかったんなイノセン!タイさんもお前は太っとる方がいいってよ!」
と嬉しそうに大笑いする。ムッとした。
「人の悩みを!ちっともよかないですわ!」
だがそんな風に怒って毛を逆立てている猪上が余計に面白かったらしい。獅子ヶ原は身体をくの字に折り曲げてせき込み始めてしまった。
猪上は怒っているのに、熊も、虎も、獅子もみんな笑っていた。
「んもう~~!ボクだって悩んどるのに~~~!なんでやね~~~~~ん!!」
猪上の悲痛な叫びがあたりに響き渡った。
*
10分後。
虎と獅子の二人組は先に店に入ってしまったので、猪上と日ノ隈は列の後ろの方に並んでいた。
――先程、日ノ隈は虎と獅子の二人に
「のうのう、トラ、リュウ。ワシら知り合いなんじゃけぇ、一緒に並ばせてくれんかの?」
と頼んだのだが
「何言ってんすかタイさん!そりゃ割り込みですよ!ちゃんと並んでください!」
と黒嶋に叱られ、
「……タイさん、それはダメ……ダーメンです……ラーメンだけに……」
と獅子ヶ原にぼそぼそと注意され、(ダジャレのつもりなのか獅子本人はその直後に一人で肩を震わせていたが)
「タイさん……それはさすがに無いですわ……」
と猪上に呆れられ、がっくりとうな垂れた熊はしずしずと最後尾についたのであった。
「……しかしイノセン、そんなに体型のこと気にしょぉったんか?」
気を取り直したのか、日ノ隈がふと猪上に尋ねてきた。
猪上は普段から“丸っこい体型は猪獣人と言う種族故のことだから諦めている”と寮内で公言している。だが、そりゃあ猪上も痩せられるものなら痩せたいと思っているのは事実で、先程の虎や獅子のように逞しく筋肉質な体型にちょっぴり憧れてもいた。
「いやまあ、ホントはそんなに気にしてるわけやないんですけどね。あんまり太っとるのもみっともないとは思っとんですけど」
猪上の返答に、日ノ隈は腕組みをして片眉を上げた。
「ふぅむ。まあ、あんまし体型を気にせんのもどうかと思うの。ワレの健康にゃぁ当然よぅないじゃろし、やっぱし女共はすまーとな男の方が好きじゃろうからの」
前半はともかく、後半はちょっと意外な発言だった。
猪上は耳をピコピコと動かして熊の顔を見上げた。
「タイさんでも女子の目なんか気にするんですか」
日ノ隈はいつもマイペースで、あまり人の目を気にしないタイプだと思っていたので猪上は少々驚いていた。そもそも女子の目を気になんてしていたらジャージと下駄などという恰好で外出はしないだろう。
日ノ隈のプライベートで色恋沙汰の話など聞いたことが無かったし、あまり興味もないのだろうと思っていた。
猪上の質問に、日ノ隈は決まり悪そうに頭を掻いた。
「わ、ワシのこたぁどうでもえかろうが。……ま、まあ最近ツレに彼女が出来たけぇ、ワシもそがぁなことも考えたりもするっちゅうか……」
日ノ隈にしては歯切れの悪い答えだった。
ツレ、というのは日ノ隈の20年来の幼馴染の三楠のことだ。
彼に恋人ができたことで、日ノ隈は置いて行かれたような気持ちになっているのかもしれない。確かに三楠はスマートなので、体型的には女子からもモテるタイプだろう。しかも口は悪いが中身は優しいときている。大学でも女子に人気があるであろうことは想像に難くない。
対する日ノ隈は、縦にも横にも大きい巨大な熊である。初対面の女子からは怖がられてしまいそうだ。悪い人物でないのは間違いないのだが、どこか抜けているところもマイナスポイントである。
少なくとも、第一印象で女子から好かれるタイプでは決してない(と猪上は勝手に思っていた、大変失礼なことに!)。
「……ま、タイさんの場合は体型よりも服装から熟考した方がええと思いますけどね」
猪上はそう言って日ノ隈を上から下まで見下ろした。
熊が普段から愛用しており今も着ている一張羅のジャージは、日ノ隈が大学1年から使っているものらしく、袖口のゴムのところがほつれ始めており、ひざのところは生地が擦れて傷んでいるのが丸わかりである。しかも足元は季節外れの裸足に下駄である。
要は、貧乏くさい。
おしゃれ指数ゼロ。
まあ実際、寮生には苦学生が多いのだが。
しかし、猪上の冷たい目線も日ノ隈は意に介さず、ふん、と鼻を鳴らして指を顔の前で揺らした。
「ちっちっち!わかっとらんのぅイノセン!このジャージはの、ワシと仲間たちの血と汗が沁み込んどる青春の一品じゃけぇ、これの価値がわからん女なんてワシにゃ要らんのよ!」
元気よく声を張り上げる日ノ隈の返事に、猪上は唸った。
「うーん……実にタイさんらしい清々しいお返事やねえ……」
「イノセン、もしかしてワシのことバカにしとるのぅ?」
渋い顔を日ノ隈のした質問に、猪上は大げさなくらいにかぶりを振る。
「何言うてますか!前から言ってますけど、ボク、タイさんのこと尊敬しとりますからね!」
日ノ隈の毛並みがぼんと跳ねあがる。
馬鹿にされる流れだったので、いきなり褒められたのが予想外だったのだろう。
「そ、そんなら別にええが……」
そう言って、熊は照れたように黙り込んでしまった。
――なんとも、ちょろい。
猪上もふーんと鼻息を吐くと、ラーメン屋の壁にもたれかかって空を見つめた。
青を背景に、白い雲がぽかぽかと浮かんでいる。
いい天気だった。
どんよりとし始めた猪上の胸中とは裏腹に。
(……そら、そうやんなあ……。タイさんだってフツーに女の子が好きなんや……)
日ノ隈は男子学生ばかりの工学部だし、部活は女子にはまるで人気の無い競技だし、寮にも男子学生しかいないし、こんな性格だから女っ気などまるで無い生活を送っているように思っていた。そして実際今までそうだったのだろうと思う。この2年間、日ノ隈に彼女がいたなどという話は聞いたことがなかったし。
そして猪上はそのことになんとなく安心していたのだけれど。
やはりこうして改めて日ノ隈の口から聞かされると少し辛かった。
――“自分が好きなのは女だ”と。
別に日ノ隈が自分と同じように同性を好きだと思っていたわけではない。そうではないけれど。
猪上が太っていようが痩せていようが、結局日ノ隈が男の自分を好きになることは無い。そう思うとただでさえ少ないダイエットへのやる気も、さらに削がれてしまうというものである。
(――やっぱし女共はすまーとな男の方が好きじゃろうからの)
そんな日ノ隈の言葉を聞くと、いつか日ノ隈にも大事な相手が出来て、その人を今の自分と同じようにラーメン屋に連れて来ているところまで猪上は想像してしまうのだった。
だから、今の自分は結局その誰かへの繋ぎみたいな存在でしかなくて、日ノ隈の大事な人には自分は絶対なれなくて。
――男しか好きになれない自分は、きっとこのままずっと独りぼっちで――
「――のぅ、イノセン」
気付くと、日ノ隈が顔を覗きこんできていた。
猪上はぷるぷると顔を振って頭の中の暗い考えを追い払う。
「な、なんですかタイさん」
「暇じゃけえ、なんかおもろい話でもしてくれんか?」
とんだ無茶ぶりである。日ノ隈は、稀にではあるものの先輩特権を生かして無理な注文をしてくるのである。
「おもろい話とか言ったらハードル上がるやないですかい!」
「ほうかの?……そがぁならあれでええよ、イノセンの得意の話」
「ボクの得意な話?」
心当たりが無くて眉根を寄せる猪上だったが、日ノ隈は大きく頷いた。
「あれじゃあれ。ワレ、前にも話してくれよったじゃろ、ええと……ほれ……なんといったかの……」
度忘れしてしまったのか、日ノ隈も眉間に手を当てて考え込む。「ほれ、ワシの地元の別れの挨拶みとぉな……“ほいじゃあ”じゃのぉて……」
そこまで言われて、日ノ隈の言わんとしていることに猪上は気付いた。
自分の得意な話で、“ほいじゃあ”。
思い当るモノは一つしかなかった。
恐る恐る、それを口に出してみる。
「――タイさん。それってもしかして、『ボイジャー』ですか……?」
やはり正解だったらしい。日ノ隈はパッと顔を輝かせた。
「そうじゃそうじゃ!ボイジャー!あれの話をしてくれんかの!」
*
――ボイジャーは、大国による外惑星の探査計画と、その目的のために打ち上げられた二機の惑星探査機の名前である。
ボイジャー1号は猪上が大学1年、日ノ隈が大学3年の年の9月5日に、ボイジャー2号は同じ年の8月20日に打ち上げられていた。
1号は木星と土星を、2号はそれに加えて天王星と海王星を観測する予定なのだ。
「……ん?なんで2号の方が先に打ち上げとるんじゃイノセン?」
日ノ隈が質問する。
「それは大しておもろい話やないんですけど」
前置きをして猪上は答える。「ホンマは1号と2号は同じ日に打ち上げるはずやったんですけど、1号にシステム不良が見つかってしもたんですわ。それで打ち上げ日を延期したってわけです」
日ノ隈がつまらなそうに頬を掻く。
「……確かにあんまりおもろくないのぅ……」
「だから言ったやないですかい!……でもこの計画はめっちゃ画期的なもんですよタイさん!」
日ノ隈にツッコミを入れつつ、しかしそれでも猪上は目を輝かせて青空を見上げた。
――ボイジャー計画の主軸は、なんといっても外惑星の探査だった。
天王星は1781年、海王星は1846年と、どちらの惑星も100年以上昔に発見されていたものであるが、どちらの星にも探査機はまだ一度たりも到達できていない。
従って、猪上と日ノ隈の暮らす1979年の現代でもまだ鮮明な写真は一枚も撮られていないのである。
今回ボイジャーが外惑星に到達することが出来れば、宇宙開発史上、歴史的な快挙なのは間違いない。
そこでは、誰も見たことの無い惑星が待っているのだ――
「ほぅほぅ、なるほどのぅ。……確かに天王星と海王星っちゅうのはワシも名前は聞いたこたぁあるが、どがぁな星かは知らんの」
猪上の説明に、日ノ隈が顎を撫でつつ頷く。
「せやろせやろタイさん!まだだーれも見たことあらへん星の写真が送られてくるんや!こりゃ凄いことやで!」
猪上ははしゃいで声を上げた。大好きな相手と、大好きな天体関連の話が出来るのが嬉しかった。
「まだ誰も見とらんもんをワシらが生きとるうちに見られるってゆうなぁ確かにワクワクするのぉ!」
日ノ隈も楽しそうだった。
「しかもそれだけやないんやタイさん!ボイジャーの凄いところは『スイングバイ』っちゅーてな……」
――『スイングバイ』。
それは、“重力アシスト”とも“近傍通過”とも呼ばれる、当時の最新鋭の技術の一つである。
要は天体の万有引力と公転を利用することにより、燃料をほとんど使わずに探査機の軌道と速度を変更することが出来る航法だった。
これにより、二機のボイジャーは太陽系からの脱出が可能となり、外惑星へのアプローチ、ひいては外宇宙への探査を行うことが出来るのである。
「んん?よくわからんの……。イノセン、もう少し噛み砕いて説明してくれんか」
日ノ隈の質問に、猪上は鞄を取り出すと、持っていたチョークで道路に20センチ程度の丸を書く。
「これが目標の惑星とするやないですか」
「ふむ」
猪上は、それから少し離れたところにちょん、と点を置いた。
「んで、これがボイジャーやとして……さて、ここで問題です。はい、タイさん!」
猪上は突っ立って見ていた熊にチョークを突きつける。
虚を突かれたらしく、日ノ隈の目が点になる。
「え、え、ワシ!?ワシ、星のこたぁよぅわからんし!受験の知識なんぞ忘れてしもぉたし」
顔の前でぶんぶんと手を振る日ノ隈だったが、猪上は構わず続ける。
「何言うとるんですか、タイさん工学部でしょ!……では問題!ボイジャーがこのまま惑星に向かっていったらどうなりよると思います?」
「え、えーっと」
質問された日ノ隈は腕組みをして5秒ほど黙ったが、これは物理分野の問題である。日ノ隈に分からないはずがない。
「……惑星の重力に引かれるけぇ、そのまま落ちていくんかのぉ?」
猪上はにこりと熊に向けて笑った。
「せや!あったりーやで!タイさん!……なので、」
明るい声でそう言いつつ、猪上はボイジャーを示す点から、惑星の円周すれすれの外側を通るよう線を引いた。「ボイジャーちゃんにはこんな風にちょっとずらした軌道をとってもらうわけです」
それを見ていた日ノ隈は、しかし首を捻った。
「これに何か意味があるんか?」
猪上は大きく頷く。
「ありありでっせタイさん!この時、惑星に向かってくボイジャーの速度ってどないなっとると思います?そのまま?」
日ノ隈はかぶりを振る
「いや天体の重力に引かれとるけぇ、そのままってこたぁ無いの。加速しとるじゃろ」
「せやでタイさん!んで、引かれたボイジャーはこないな軌道をとるんやけど……」
猪上は、ボイジャーの軌道が惑星の円周に沿うようにして、ぐい、とくの字に曲げられた線を描き、さらにそこから惑星から離れるように線を描いた。「惑星の重力に掴まらなければこうして脱出できるわけや!軌道変更のおまけつきで!」
惑星の重力圏への進入時と脱出時で、ボイジャーの軌道は大きく変わっていた。つまり、惑星の重力を用いて軌道変更を行うのがスイングバイの要点の一つだった。あとは進入角度と速度で、細かく軌道の調整を行うのである。
この技術で、軌道変更のための燃料を大幅に節約することができるのである。
しかし、日ノ隈は納得していない顔だった。
「んん……?イノセン、ちぃと待ってくれん?」
猪上の手つきと、チョークで描かれた模式図を眺めていた日ノ隈から物言いが入る。
熊は脱出していくボイジャーの軌道を指さす。
「さっきワシャぁ惑星に向こぉていくボイジャーは加速するってゆぅたが」
猪上は頷く。
「言いましたね。それで合ってますよタイさん。さっすがや!」
猪上のおだてに、いやーそれほどでも、と熊は一瞬頭を掻くが、すぐ頭をプルプルと振って、真面目な顔に戻る。
「……いやそうじゃのぉて、な。つまり逆に、惑星から離れていきよるボイジャーは重力に引かれて減速するよの?つまりゃぁエネルギー保存の法則があるけぇ、進入時と脱出時で運動方向は変わっても運動速度は変わらんのんじゃないかのぅ?」
大柄な熊の指摘に、いつの間に出来ていたのか、二人を囲むギャラリーたちからどよめきが上がる。
だが夢中になっている猪上の耳には入らなかった。
日ノ隈の言う通りである。
惑星に近づいていく探査機は惑星からの重力に引かれて加速していくが、最接近した後、離れていく際は進行方向と逆向きに重力が働くため、探査機は減速するのである。結局この加速と減速が相殺し合うので、探査機の速度は変わらないことになる。
だが猪上は、致命的な指摘をされたにも関わらず、ふっふっふーん、と余裕の笑いを浮かべた。
「タイさん、さすがですわ。さすがは工学部ですわ。でもですねタイさん、それは“惑星が運動していなければ”の話なんですわ……」
そう言ってニヤリ、と猪上は笑う。
「運動しとらにゃぁ……じゃと……?」
しかし日ノ隈にはピンと来ていないようだった。
「実際にはどの惑星も公転してますからね。こんな風に」
猪上はチョークで惑星の真ん中から矢印を書き足した。「ボイジャーちゃんが、この惑星の後ろから重力圏に進入して、近くを通った後に公転と同じ方向に抜けてくとすると……」
そこまで言われて気付いたのか、日ノ隈が声を上げた。
「あっ!わかったわ!元のボイジャーの速度に、惑星の公転速度が足された形になるっちゅーことじゃの!じゃけぇ加速するんじゃな!」
猪上は顔を上げると、日ノ隈に向かって破顔した。
「大当たりや~~~~~~~~!」
日ノ隈が分かってくれたことが嬉しくて、猪上は思わず大声を上げてしまった。
そして、それに合わせたように周りから拍手が上がった。
「へ……?」
驚いた猪上と日ノ隈が周りを見渡すと、行列に並んでいた人たちも二人のやり取りに見入っていたらしく、皆が輪を作って二人を囲んでいた。
「あんたらそこの大学の学生さん?よくわからんかったが面白かった!」
見知らぬ鹿の中年男に褒められて、
「や、わ、ど、どうも……」
と日ノ隈が目を白黒させれば、
「つまりは、公転方向の逆から進入させれば探査機の減速も出来るってことでいいんですよね?」
などと浪人生らしい学生服のワニに話しかけられて
「そ、そや。それで合ってるで!そんでもってな……」
と猪上はさらなる講義を始める。
わいわいと、妙に賑やかなラーメン屋の行列となってしまった。
*
――その一方、食事を終えて出てきた虎と獅子の二人が足を止めていた。
「うーわ。な、何をやっとんな、あの二人は」
太眉の虎獣人・黒嶋が騒ぎを見てあんぐりと口を開く。
半分驚き、半分呆れているようだった。
「……俺らはさっさと退散するぞトラ。あそこにいるのが“タイさん”だけにな……」
一方、無口な獅子獣人・獅子ヶ原はぼそぼそとそう呟くと、一人でくつくつと笑うのであった……。