離れ離れのスイングバイ 中

  ラーメン屋の行列に並ぶ他の客を巻き込みつつ、わいわいと宇宙談義で騒ぎながら20分ほど待っただろうか。

  やっと猪と熊の二人にも入店の順番が回って来て、運よくちょうど空いた二人掛けのテーブル席に案内された。

  「はぁー。さすがにちょいと疲れたの、随分待たされたけぇ」

  そう溜め息をつきながら席に着いたのは、ジャージ姿の大柄な熊獣人。日ノ隈大晴(ひのくまたいせい)という名の大学4年生である。2メートル近い巨躯の日ノ隈は、どかっと椅子に腰かけると気怠そうに木製のテーブルに頬杖をついた。

  今朝の4時まで酒を飲んでいたのでまた眠くなってきたのかもしれない。

  

  「やー。でもま、色んな宇宙の話が出来たんでボクは楽しかったですけどね!」

  熊の真向かいの席でやや興奮気味に返事をしたのは、小さな丸眼鏡をかけた体格も丸い猪獣人。猪上仙治郎(いのうえせんじろう)という大学2年生だ。

  猪上は、先程まで日ノ隈は勿論のことラーメン屋の行列客を相手に得意の宇宙談義を一席ぶって来たせいか、テンションが少々高めである。

  猪上も話しているうちに夢中になってしまったのか、日ノ隈と話していた外惑星探査機であるボイジャー1号・2号の説明に始まり、探査機の方向転換と加減速のための『スイングバイ』の原理、さらには二機の探査機に積まれた『ゴールデンレコード』について、はてまた地球外生命体が存在する可能性に『ドレイクの方程式』なんてややこしい数式まで持ち出して説明したものだから、最後の方には日ノ隈はもちろんのこと他の行列客たちはポカンとしてしまっていたが……。

  まだ興奮冷めやらぬ猪の様子に、日ノ隈はテーブルに頬杖を突いたまま、にへら、としまりの無い笑いを浮かべて猪の顔を眺めた。

  「ホンマ、イノセンは宇宙が大好きなんじゃのう。いっちゃんケツの方の話なんぞ、ワシちぃともついていけんかったがの」

  日ノ隈の言葉に、猪上はハッとする。

  つい話に夢中になりすぎて、日ノ隈のことを置いてけぼりにしてしまったかもしれない。

  先程までぺちゃくちゃと夢中で語っていた自分を思い出すとなんだか恥ずかしくなってきた猪は、カーっと頬が熱くなるのを感じつつ面目なさそうに頭を掻いた。

  「……や、やー。すんません、タイさん。自分でもちっとばかし話しすぎやなと思ったんですけど、話しとるうちについ楽しくなってしもうて……」

  申し訳なさげに頭を下げる猪上だったが、日ノ隈は別段気にしていないようだった。からからと笑うと顔の横で手を振り、

  「ええよええよ。夢中になれるもんがあるんはええことじゃけぇ」

  と言いつつテーブルの端に立てかけられているメニューを手に取る。「ほれイノセン、先に選んでくれんかの」

  自分に向かって広げられたメニューを見て猪上は

  「わ、すんません」

  と礼を言い、熊の大きな手からそれを受け取った。

  一方の日ノ隈は、そこを覗き込むようにして首を伸ばしてくる。

  自然、猪と熊の顔が接近することになる。

  猪上の鼻腔を少しの酒臭さと獣臭さがくすぐった。日ノ隈の体臭だ。

  何の気なしの日ノ隈の行動だったが、猪上は自分の頬が熱くなるのを感じる。

  (……な、なんやこの状況は……)

  ちらりと目を上げて見れば、自分のほんの鼻先に、真剣な目つきでメニューを見つめる大きな熊の顔がある。太い眉と、褐色の剛毛の、その一本一本が見えるくらいの距離に。

  ──自分の大好きな先輩の顔が、まさに目と鼻の先に。

  どいつもこいつも美味そうじゃけぇ悩むのぉ、などと呑気に呟いている熊の横顔をちらちらと盗み見ながら、猪はごくりと唾を飲み込む。

  (なんか、ボクとタイさん、ホンマにデートしとるみたいやん……?)

  猪は胸をドキドキとさせつつ、その幸せをかみしめる。片思いの相手と二人で顔を突き合わせて食事を選んでいるという現実に。

  あまりじろじろ見ていると気付かれそうなので、猪上は日ノ隈から視線を逸らすと、自分もメニューに目を向けた。

  だが、そこで唐突に

  「……イノセン。少しいいかの?」

  と日ノ隈に低い声で名前を呼ばれた。

  大柄な熊の神妙な声に、猪上はドキリとする。日ノ隈の顔ばかり見ていたことがバレただろうか。

  「な、なんすかタイさん」

  猪上が平静を装って返事をすると、熊は太い指を伸ばしていくつかのラーメンを指さした。

  「あんな、ワシ、やっぱし豚骨が食いたいんじゃが、塩チャーシューも捨てがたいけぇイノセンはこっちを選んでくれんか?ワシと半分こしょぉで。な?」

  情緒の欠片も無い熊の言葉に、猪がガクリとずっこける。

  「なんやそれタイさん!?ボクの好きなもん食ってええんと違うんすか?」

  雰囲気をぶち壊されて思わず猪上は文句を言うが、熊はどこ吹く風である。

  「半分はワシが出しちゃるけぇ」

  日ノ隈は真顔でそう言ってのける。

  「しかも半分ボクが出すんすか!?後輩やのに!?」

  「なんじゃイノセン。ワシに奢ってもらうつもりで付いてきたんか?」

  「や、そういうわけやないですけど!自分の分くらい払いますけど!食うもんは自分で決めたいやないですか!」

  猪上は目を剥いて抗議したが、日ノ隈は全く動じない。

  「まあまあ。そがぁに目くじら立てんで。塩チャーシューもぶち旨いと思うけえ、イノセンはこれじゃ。な? 決まりじゃ決まり。おーい、ねえちゃーん。注文じゃー」

  と言って、猪上の返事も聞かずにさっさと店員を呼び始めてしまった。

  猪上はあんぐりと口を開けて、熊のその姿を見つめる。

  (な、なんちゅー強引さ!)

  余程二種類のラーメンが食べたいらしい。こういう時の日ノ隈には何を言っても無駄である。猪上は小さくため息をついた。

  ややあって、自分の理想通りに注文を終えた日ノ隈は猪上に向き直る。そして掌を縦にして自分の顔の正面に持ってくると、少しだけ申し訳なさそうな顔を作り、

  「でへへ。すまんのイノセン。あとで半分こしょぉな」

  と言ってぺろりと舌を出した。

  一応、謝っているつもりらしい。

  「…………」

  だが猪上は黙りこくったまま返事をしない。

  さらには、ふい、と日ノ隈から顔を背けてしまい、あろうことか席を立ってしまった。そのまま、つかつかと手洗いに向かって歩いて行く。

  「あ、ありゃあ?イノセン?む、無視かの……?」

  日ノ隈が声を掛けるが、その声にも猪上は反応しない。怒らせてしまったと思った日ノ隈が慌てた声を出す。「す、すまんてイノセン!のう?そ、そうじゃ、もうワシ全部奢っちゃるけえ!そがぁにへそを曲げんでも!」

  

  しかし猪上は、日ノ隈のその声にも反応せずトイレに入ってしまった。

  ばたん、とドアが閉まる。

  入ってすぐ左手にある鏡を見て、猪上は、

  「はあ……」

  と深々と溜め息をつく。

  あの大柄な熊の、ペロリと舌を出した顔は不意打ちだった。二年弱一緒に暮らしてきて、初めて見る日ノ隈の表情だった。

  猪上は蛇口をひねると、眼鏡を外し両手で水を掬ってざぶざぶと顔を洗い、

  「い、いきなりあんなん、反則やろ……」

  ぼそぼそとそう呟く。

  顔を上げると、鏡に映った自分の目元がまだうっすらと赤くなっているのが分かった。

  先程の猪上はつい赤面してしまったのだ。それが日ノ隈にバレたくなくて、席を立ったのだ。

  ──大好きな相手の、あんな茶目っ気たっぷりの顔を見せられて。

  「ハァ……。惚れた弱み、っちゅーやつやろなあ……」

  猪上はまた深々と溜め息をつく。

  日ノ隈があんな風に喜んでくれるのなら、自分の食べたいラーメンが注文できないくらいどうでもいいことだと思ってしまう。そのことがなんだか悔しい。好きな相手だから、何でも許せてしまいそうな気さえしてしまう。

  そんな風に猪上が感傷に浸っていると、ばん、ばん、とドアが外から叩かれた。

  「……も、もしも~し? イノウエく~ん? き、機嫌直してくれんかの……?」

  続けて聞こえてきたのは日ノ隈の声である。自分が無理矢理注文したことで、猪上が怒ってトイレに籠ってしまったと勘違いしているようだ。

  (ホーンマ、タイさんは僕の気も知らんでええ気なもんですコト!……ま、知られても困るんやけど)

  猪上はドアの外に向かって呼びかける。

  「タイさん、ボク別に怒ってへんですよ。ただちいと腹が痛かっただけですわ、すんません」

  日ノ隈の顔を見て赤面していたなんて言えるはずも無い。

  嘘も方便である。

  「ほ、ほうか!ならええんじゃ」

  猪上が怒っているわけではないのだと知って、日ノ隈がホッとしているのがよくわかる声だった。猪上も思わず微笑んでしまう。

  だが猪上は、敢えて仏頂面を作ってトイレを出た。

  そして、真顔のまま目の前に立っている熊にこう言ってやった。

  「……でもですねタイさん、さっき言うてた通りボクのラーメンは全おごりで頼んますわ」

  「げっ。ちゃ、ちゃんと聞こえとったんかワレ……!」

  [chapter: 離れ離れのスイングバイ 中]

  3

  

  その日の夜は星しか見えない、良く晴れた新月の夜空だった。

  

  「ほっ、ほっ」

  

  とある大学の学生寮──『雅山寮(がざんりょう)』の階段を、一人の猪獣人の青年が上っていた。その丸い背中には大きな天体望遠鏡を担いで。

  だが、その息は随分と荒い。傍から見れば肩で息をしているのが丸わかりである。

  (はー情けな、めっちゃ息上がりよるわ……。やっぱボク、ちょっと太ったかもしれんね……)

  などと心の内でぶつくさと呟きつつ、猪の青年は鼻の上からずり落ちそうになった眼鏡を指の先でちょいと上げる。彼の身長は人並み程度だが、猪という種族故か年々体つきは丸みを帯びており、彼自身もそれを少しだけ気にしていた。

  百名余りの獣人の学生が住むこの学生寮は五階建て。

  元々が苦学生用の寮でありトイレ風呂は共同、各部屋は八畳一間に定員2名。よって、月2千円にも満たないという破格の家賃であるため、当然エレベーターなんて贅沢なシロモノは設置されていない。

  したがって、猪の目的地である屋上へと出るのはなかなか骨が折れる作業であった。

  猪獣人の名はご存知、猪上 仙治郎(いのうえせんじろう)。

  この寮の住人の大学2年生である。

  昼間は寮の先輩かつ同室の熊獣人──日ノ隈 大晴(ひのくまたいせい)と共にラーメン屋に出かけた猪上だったが、その後帰ってきてからは課題のレポートを仕上げるためにずっと机に向かっていたのである。

  ……一方の日ノ隈は、猪上の横で備え付けの二段ベッドでぐうぐうと気持ちよさそうに昼寝をしていたが。

  その甲斐あって、ようやくレポートが片付いたので久しぶりに『彗星探し』でもしようかと猪上は単身屋上へ向かっているのであった。

  彗星探しとは、猪上の趣味である天体観測の延長線上にあるものだった。

  この頃は一般人による新彗星の発見が毎年のように相次いでおり、多くのアマチュア天文家たちがこぞって未発見の彗星を探していた。猪上も趣味で天体観測を行っており、いつか自分の名前を彗星につけられたらいいな、などと夢想していた。

  (『命名・イノウエ=センジロウ彗星』! なーんつってな!)

  そのうち、自分の名前の付いた彗星が新聞や雑誌に載るかも……。

  そんなことを考えると、つい猪上の頬は緩んでニヤニヤとしてしまう。猪上は生粋の天文好きだった。

  さて。

  最上階へ辿り着いた猪上が屋上へ続く鉄製の扉をそろりと開けると、果たして、頭上には満天の星空が広がっていた。

  「おー!今夜は天体観測日和やなー!」

  予想通りの光景に思わず猪上は声を上げる。

  新月の夜は、月の光が全く無いために暗い星でも観測しやすくなる。おまけに今夜は雲一つない晴れ渡った夜空だ。未発見の彗星を見つけるには絶好のコンディションと言えた。

  猪上は北の空に浮かぶ北斗七星に目を向ける。

  その「柄」の部分からカーブを描く様に視線を移動させていけば、牛飼い座の“アークトゥルス”、さらにその先にはおとめ座の“スピカ”という特に明るい二つの星がすぐに見つかる。これが『春の大曲線』とも呼ばれる、春の夜空一等星をつなぐ巨大なカーブだ。

  さらにこのカーブを延ばしていけば、“からす座”という、小さな台形を形作る星座にぶつかる。

  からす座自体は比較的地味だし知名度も低い星座だが、からす座から真南に下りていくと、かの有名な星座であるサザンクロス──『南十字星』に行き当たるのだ。

  (まあボクがおるのは北半球やから、南の島でも行かん限り南十字星はどうやったって見えへんのやけど。生きとるうちに一回くらいは見てみたいなぁ)

  猪上は星空を見上げて、見知った星座とまだ見ぬ星座、そしてそれらが浮かぶ大宇宙に思いを馳せる。

  うんうん、と楽しそうな表情を浮かべたまま猪上は満足げに頷いて。

  だが、そこで猪上は気付いた。

  屋上には既に先客がいたことに。

  目を凝らせば、暗闇の中に自分よりも大きな影がのそのそと動いているのが見えた。

  猪上は目をぱしぱしとしばたたかせると、その背中にそっと呼びかける。

  「……こんな夜更けに、なーにしとるんですか、“教授”」

  その声に、影がゆっくりとこちらを振り向く。

  ──ああ、やっぱり。

  見えた顔が予想通りの相手だったので、猪上はホッと一息ついた。

  その人物は、黒い毛並みのデカい獣人だった。

  いや、正確には全身が真っ黒なわけではない。垂れ下がった大きな耳と顔の両側面がもさもさとした真っ黒で被毛で覆われているせいで、後ろや横からでは夜の闇に紛れてしまうのである。だが、額から鼻、そして顎にかけては真っ白な毛色なので、正面から見ればどうにか顔がわかった。

  「……ふん、そいつはこちらのセリフじゃ。お前さんこそこんな時間に何しとる、えぇっ?」

  猪上に向かって低く唸る様な声を出したのは、ニューファンドランド犬種という大型犬の獣人だった。最近体重を増してきた猪上の体格以上の立派な体躯をしているが、丸っこい猪上と違い、がっしりとした筋肉質な体型だ。

  猪上同様に眼鏡をかけているが、大型犬のマズルに乗った眼鏡は銀縁で、星の光を反射して、きらりと光った。

  聞き慣れた低音の声に猪上は微笑む。

  「そりゃ多分“教授”と同じですわ。今日は新月やから、星がよう見えると思いまして。“教授”も星を見とったんでしょう?」

  猪上は朗らかに訊き返したが、“教授”と呼ばれた大型犬は不機嫌そうに鼻を鳴らした。

  「ふん。なーにが俺と同じじゃ。言っとくが、あの場所は俺が先に取ったんじゃからな、お前さんは端っこでやれ!」

  「ほいほーい、了解やでー」

  “教授”の噛みつくような言葉とは対照的に、猪上はひょうひょうと受け流すように返事をした。

  それが予想外だったのか、

  「……ふん」

  と、大型犬は再び鼻を鳴らして黙り込む。

  この黒白の被毛の大型犬は、“教授”と呼ばれてはいるものの猪上と同じく立派な大学生であり、雅山寮に住む寮生の一員でもあった。“教授”はただのあだ名である。

  だが、留年をしているという一点に関して、“教授”が普通の学生と少々違うところだった。猪上が聞いた話では、この春に卒業する日ノ隈や三楠(みくす)と言った4年生たちよりさらにいくつか上の学年らしい。さすがに三十路までは行ってないようだが、正確な学年と年齢は猪上もよく知らない。

  “教授”と呼ばれるこの大型犬は、なんでも自分の研究にのめり込むあまり卒業論文が完成できなかった──いや、しなかったのだという噂だった。

  (こんな未完の論文で卒業なんか出来るか!俺を無理やり卒業させるというんなら中退したるわこんな大学!!ええっ!?どうする!!)

  嘘か誠か、そう言って学長に怒鳴り散らしたという話は、未だに寮でも大学でも語り草である。

  猪上が“教授”と初めて出会ったのは、寮に入って1か月が経った5月頃のことだった。

  *

  (──なんじゃお前さんはっ!一体誰の許可を得てここに入っとる!えぇっ!?)

  

  2年近く前のその夜も、やはり新月だった。

  天体望遠鏡を背負って屋上に足を踏み入れた途端、先にいた大型犬にそう怒鳴り散らされたことを猪上は今でもよく覚えている。

  だが猪上も負けてはいなかった。

  当時、新入生歓迎という名目で数えきれないくらいに飲み会が行われていたため、寮生たちとは同期も先輩も含めて全員と顔を合わせていたはずだったからだ。

  もちろん飲み会への参加の頻度は人によって違うが、寮生全員が絶対参加という飲み会もあるので、まさか一度も顔を出していない寮生が存在するとは当時大学1年生のまだまだ素直な猪上は夢にも思っていなかった。

  だから続けて

  (邪魔じゃ!さっさと屋上から出ていけっ!)

  と怒鳴りつけられてしまった猪上は、ムカっ腹が立っていたのもあって

  (……はァ?何言うとるんですかアンタ。ボク、アンタのことなんかこれっぽっちも知らんのやけど!アンタがこっから出てったらどうですか!?)

  と売り言葉に買い言葉で返してしまったのであった。

  まさか向こうも、怒鳴りつけた相手にそんな風に言い返されると思っていなかったらしい。

  大型犬はその場でびたりと足を止めると、目を丸くして猪上を上から下までじろじろと見つめた。

  一方の猪上も、舐められて堪るかと胸を張って大型犬を睨み返してやった。

  にらみ合いが始まって数秒後、大型犬の視線がある一点で止まる。

  猪上の担いでいた、背中の天体望遠鏡である。

  (……お前さん、ここに何しに来た)

  そう言う大型犬の声が少し丸くなっていたので、猪上は警戒しながらもぼそりと答えた。

  (……星を、見ようかなって)

  猪上の言葉に大型犬の表情は変わらない。だが一瞬その片耳がピクリと動き、その後ろで尾がぶん、と横に一振りされた。

  (フン。そうか)

  大型犬はそれだけ言うと身を翻して、スタスタと元いた場所に戻って行った。

  それきり、猪上の方を見ようともしない。

  (……えーっと)

  突然の大型犬の態度の変化に猪上は呆気に取られたが、他にどうしようもなくて大型犬の傍におそるおそる歩み寄ってみて。

  そこで気付いた。

  大型犬もまた、天体観測をしようとしていたことに。

  屋上の入り口からではよく見えなかったが、そこにあったのは大型の天体望遠鏡だった。

  自分の持っているものより、おそらくずっと高性能のもののようだ。

  (──俺はな、燔渡(はんど)じゃ)

  大型犬が、大きな背中越しにぼそりとそう呟いた。

  (はい?ハンド?……手ですか?)

  猪上はその意味を掴めなくて聞き返す。

  (なんや、手がなんですって?)

  大型犬が猪上の方を振り向く。眉間に皺を寄せて不機嫌そうな顔をしていた。

  (えーい、察しの悪いやつじゃなお前さんは!俺の名前じゃ!覚えとけ!ハ・ン・ド!燔渡、嵐人(はんど、らんど)!)

  (は、ハンドランド……?どこのテーマパークさんやそれ……)

  聞き慣れない名前の響きに、思わず猪上はぶふっ、と噴き出してしまった。

  それを見た大型犬がぶわりと全身の毛を逆立てる。

  猪上は慌てて口を手で押さえるが時すでに遅し。

  (笑うなっ!俺だって好きじゃないわこんな妙ちきりんな名前!ええっ!?)

  また怒鳴られてしまった。どうやらその名前、大型犬が気にしていた事柄だったらしい。

  大型犬は自分の頭を両手で抱えてぐしゃぐしゃと掻き回すと、ふーふーと息を整える。そうして少し落ち着いたのか、こう続けた。

  (……寮の連中は俺のことをこう呼んどる。“教授”とな。ふん、ただの学生を捕まえてそれも失礼な話じゃがな!お前さんもそう呼べ!いいなっ!)

  そんな風にして、猪上と“教授”の奇妙な関係が始まったのだった。

  “教授”は自分の場所を猪上に譲ることは決してしなかったが、屋上の端っこで猪上が天体観測をすることも咎めなかった。

  (……フン。性懲りも無くまた来たんかお前さんは、えぇっ?)

  猪上が星を観ようと屋上に顔を出す度に、“教授”はそんな風に悪態をついて毎回不機嫌そうに鼻を鳴らした。

  だが、通ううちにそれが決して嫌われているからではないことが猪上にも分かって来た。“教授”は単に憎まれ口を叩きたいだけなのである。

  (ええ来ましたとも。ボク、お星さまが大好きやから。“教授”と一緒ですね!)

  猪上も最初は“教授”が苦手で仕方なかったが、慣れてくるとそんな返しも出来るようになった。

  偏屈な大型犬はどうやら他人にあまり言い返されるのに慣れていないらしく、猪上にそんな返事をされると、大抵もごもごと口ごもって毛並みを逆立たせた後で

  (……ええい!な、何が一緒じゃ!さっさと始めろ!)

  などと喚くのがいつもの光景だった。

  それから、二人は互いに違う場所で夜空を眺めつつ思い思いの時間を過ごすのだ。

  接眼レンズの中に現れる煌めく星々はいつも猪上の心をウキウキとさせ、嫌なことを忘れさせてくれた。自分の考えなどまるで及ばないくらい広大な宇宙を覗いているのだと思うと、自分の悩みなどちっぽけなもののように思えたのだ。

  天体観測の最中は二人とも熱心に望遠鏡を覗きこんでいるので会話をすることはまずなかったが、ごくごくまれに機嫌がいい時は“教授”の方から話しかけてくることもあった。

  (……お前さん、ボイジャー打ち上げのニュースは見たか)

  1年以上前にボイジャーという名の外惑星探査機が打ち上げられた時には、そんな風に話しかけられたことがあった。

  突然の出来事にびっくりして猪上が顔を上げると“教授”は天体望遠鏡を覗きこんだままで、猪上の方を見てもいなかった。だがよく見ると、いつもは垂れ下がっている片耳がひょいと上がっている。

  どうやら猪上の返事が気になるらしい。

  偏屈犬の子供じみた態度がおかしかったが、それ以上に猪上は嬉しかった。

  “教授”が自分を認めてくれたような気がしたのだ。

  (もちろんですわ!ボクも打ち上げめっちゃ楽しみにしてましたし!ボイジャーちゃん、はよ外惑星の写真を送ってきてくれんかなーって思っとりますよ!)

  宇宙の話が出来る相手がいるのは猪上も嬉しくて、ついついぺらぺらと喋ってしまった。

  猪の嬉しげな声に、“教授”はちらりと顔を上げて、

  (ふん、単純なやつめ。ボイジャーから地球に写真が送信されてくるまで、どれだけの時間がかかるのか分かってモノを言っとるのかお前さんは、えぇっ?)

  と、いつものように不愉快そうに鼻を鳴らす。

  だが、この頃の猪上には大型犬のその仕草だけで彼の機嫌の良し悪しがなんとなく分かるようになっていた。

  今日の“教授”は、機嫌がいい。

  (えっと。確か一番早いんでも再来年の一月くらいですよね、その頃に木星に最接近するはずやし)

  猪上が答えると、“教授”の尾がぶん、と横に振られた。

  (……ほう。分かっとるじゃないか)

  (そりゃもう!木星ちゃんの写真やって楽しみやしボク!)

  猪上の声に、“教授”は猪上を見て口の端をわずかに歪める。

  ……小さく笑ったのだ。

  (木星の写真ならパイオニア10号、11号が散々撮ったじゃろうが)

  (いやいや“教授”!確かにパイオニアは凄かったですけど、言うても3年も前やからね!まーた何か凄い発見があるかもしれんですわ!)

  猪上の明るい返事に“教授”は(……ふん。全く呑気な奴じゃ)と小さく呟いて、ぷいとまた天体観測に戻ってしまった。だがその直前、尾がまた横にぶんぶんと二振りされたのを猪上は見逃さなかった。

  どうやら、同じ宇宙好きとして教授は猪上のことを買ってくれているらしかった。

  *

  そして今夜も、猪と大型犬の二人は離れたところで天体観測を始めた。

  猪上も、入学当初の頃は黙ったままの“教授”に妙なプレッシャーを掛けられているようにも感じていたが、今では別に何とも思わない。

  むしろ“同好の士”として、近くに自分と同じように星を見ている者がいると思うとなんだか嬉しかったし、観測に集中できた。

  (去年の秋はアマチュア天文家による彗星発見が相次いだからなァ、ボクも1個くらい見つけてみたいもんやけど……)

  そんなことを考えながら、猪の青年はくるくると望遠鏡を操る。

  接眼レンズの中に現れるきらめく星々は、いつも猪上の心をウキウキとさせ、嫌なことを忘れさせてくれた。大宇宙を覗いていると自分の悩みなんか──もうすぐ好きなヒトと離れ離れになってしまう悩みなんか、ちっぽけなもんだという気がしてくるのだ。

  (いつか自分も、そんなお星さまの名付け親になれたらええんやけど……)

  そんなことを思いつつ。

  だが今夜は、せっかくの彗星探しをしていても猪上の心はどこか晴れなかった。

  ──日ノ隈大晴。

  いつも陽気に笑っていて、酒好きで、身体が大きくて、ずぼらで、おしゃれに無頓着で、しかし人の悪口なんて絶対に言わなくて、後輩に頼られるのが好きで、だが部屋の片付けは下手で、でも時々はラーメンや酒を奢ったりしてくれる、猪上と同室の、先輩の、大柄な熊獣人。

  その屈託の無い笑顔がどうしても脳裏をちらついてしまう。

  今日の昼間に見た、茶目っ気たっぷりに舌を出していた表情を思い出してしまう。

  ……もう、とっくに諦めたと思っていたのに。

  ……もう、とっくに心は決めたはずなのに。

  やっぱり自分はあの熊のことが好きなのだ、と。

  猪の青年はそのことを再認識してしまった。

  元々猪上は奥手な性格で、大学に入るまで恋愛とは無縁の学生生活を送って来た。

  中学・高校と運動部に入ることも無く部員の少ない天文部という少々地味な部活で活動してきたし、そもそもが猪という厳つい種族なので、積極的に声を掛けてくるような異性もほとんどいなかった。だから自分が恋愛に疎いのは自覚していたが、それも仕方がないことだと思っていたし、特に焦ったり悩んだりすることも無かった。

  元来が能天気な性格でもあるので、いつかどこかで普通に恋愛をして、普通に付き合ったりして、まあもしかしたら見合いでもして、結婚したりするものだと思っていた。

  だから最初は何かの間違いかと思った。まさか、自分が同性を好きになるなんて思ってもみなかった。

  しかし自分が日ノ隈に抱く感情は全く初めてのものだった。

  あの熊の顔を見るだけで、声を聴くだけで、一緒の空間にいられるだけで、たったそれだけのことが嬉しくて。

  日ノ隈が自分以外の者と仲良くしていると妙な焦りを感じて。

  彼がバイトで部屋にいない夜などに日ノ隈のことを考えると、どうしようもなく苦しく切ない気分になってしまって。

  まさに、知識として知っていた“恋愛”と自分の状態は同じだった。

  間違いなく、猪上はあの熊のことを好きになっていた。

  (タイさん。ボク、どうしたらええんやろ……)

  だが猪上は男で、日ノ隈も男だ。男が男を好きになるなど、おかしいことだと自分でも思う。キモチワルイと思われてしまうかもしれない。

  日ノ隈に想いを告げることなど当然できず、誰かに自分の気持ちを相談することも出来ず。かといって好きな気持ちが自然と収まるはずも無くて、猪上は恋心を秘めたままあっという間に2年間を過ごしてしまった。

  そしてもう暦は3月。

  大学4年の日ノ隈が大学を卒業して寮を去るまで、あと1か月足らず──

  「──おい」

  「わっ」

  望遠鏡を覗きながら考えごとをしていたところに、急に背後から低い声が飛んできて猪上は飛び上がる。

  振り向くと、いつの間にやって来たのか真っ黒い毛むくじゃらの塊――“教授”が自分のすぐ傍に立っていた。珍しいこともあるものだ。

  “教授”は気まぐれに遠くから話しかけてくることはあっても、天体観測を行っている間は全くと言っていいほど自分の持ち場を離れないのである。

  「ど、どないしよったんですか“教授”、珍しいやないですか」

  「ん」

  大型犬は猪上の質問には答えず、短く声を発すると猪上に向かって右腕を突き出した。その手には紙コップが握られている。

  「お前さんの分じゃ。受け取れ」

  「へ?」

  咄嗟に受け取ると、中に透明な液体が入っていることに気付いた。

  ふわりと芳醇な香りが猪上の鼻腔をくすぐる。まるで葡萄だとか梨のような果実の香り。

  ……日本酒だ。

  それも、結構高級なやつに違いない。

  “教授”は大の日本酒好きなのである。

  「祝い酒じゃ。付き合え」

  “教授”はそう言うと顎をしゃくる。その先には、ご丁寧に簡素な折りたたみ椅子が二つ置かれ、いつの間に準備されたのか真ん中には火の入った七輪が用意されていた。

  「え、え、え」

  猪上は事情を呑み込めないながらも、“教授”に促されて椅子の一つに腰かけた。七輪を挟んだその正面に“教授”も座る。

  (な、なんやこれ。なんで今日の“教授”はこんなことをしてくれるんやろ……?)

  まるで普段と違う偏屈犬の待遇の良さに猪上は面食らい、必死に考えて一つの答えに行き当たる。

  「……あ、あのー……“教授”……」

  猪上の困った様な声に大型犬が片眉を上げる。

  「なんじゃ」

  「そ、そのですね。“教授”のお気持ちは嬉しいんですが、あの、ぼ、ボクの誕生日って5月なんやけど……」

  猪上の言葉で、二人の間にしーんと沈黙が落ちた。

  かと思うと、

  「あ、阿呆かお前は!なんで俺がお前の誕生日を祝わにゃいかんのじゃ!」

  「え!ちゃ、ちゃうんですか!?」

  猪上の言葉に、“教授”ははぁ、と深々とため息をついた。

  「お前さん、ちゃんとニュースは見とるんか……?一昨日、ボイジャー1号が木星に最接近したじゃろうが!その祝いじゃ!」

  「あ、あぁ!あれですか!」

  言われて猪上はポンと手を打った。そういえば新聞に小さな記事が載っていたような気がする。

  ボイジャー1号は、猪上が大学1年の秋に海外で打ち上げられた外惑星探査機である。その頃に、“教授”からボイジャーについて話しかけられたことがあったことを猪上は思い出していた。

  だが内心では

  (いやまあ確かにめでたいことやけど、わざわざ祝い酒までします……?)

  と思ってもいたが。

  だがそんな猪上の心情を見透かしたように、“教授”はこう言葉を続けた。

  「それにな、今夜のお前さんは星を観測するにもどうも上の空に見えたからな。……酒でも飲みたいようなことでもあったんかと思ってな」

  驚いた猪上が“教授”を見上げると、偏屈な大型犬は、ふん、と鼻をならしながらそっぽを向いた。

  どうやらこの大型犬、柄にもなく猪上のことを気遣ってくれているらしい。

  「意外、ですわ」

  思わず漏らした猪上の言葉に、大型犬はジロリと射抜くような視線で見下ろしてくる。

  「何がじゃ」

  「失礼やけど、“教授”はあんまり他人に興味がないんやと思っとりました。まさかそんなボクみたいな後輩を心配してくれるなんて」

  零れてしまった猪上の歯に衣着せぬ物言いに、さすがの“教授”も渋い顔をして唸り声を上げる。

  「ほんっとうに失礼な後輩じゃなお前さんは……」

  「あっ、いえ、そういう意味やなくて……いや、そういう意味なんやけど……あっ、ちがっ、そ、そうやなくてですね……!」

  失言に失言を重ね、口元に手を当てて慌てる猪上を見下ろしていた大型犬だったが、猪上の狼狽ぶりが可笑しかったのか、ふっ、と鼻で笑った。

  「まあええ。お前さんが失礼なんは入寮してきたころから知っとる。なんせいきなり先輩の俺に向かって“出てけ!”と言い放ちよったからな」

  そう言ってにやり、と意地悪くマズルの端を吊り上げる大型犬。

  猪上は面目なさそうに頭を掻く。

  「も、もうそれはだいぶ昔の話やないですか……。よう覚えとりますね……」

  「ふんっ!あんな無礼な後輩の言動はそうそう忘れんわ!」

  “教授”は勢いよく鼻から息を吐くと、憤懣やるかたなしと言った様子で語尾を強く言い切ったが、言葉とは裏腹にその目は笑っていた。背中の尻尾が三回もぶんぶんと横に振られたことも猪上は見逃さない。

  彼は、本当は上機嫌で、猪上をからかって遊んでいるのだけなのである。

  (ホンマに素直やないなあ“教授”は……)

  猪上はそう思ったが、本当に怒らせても面倒なので黙っていた。

  おもむろに渡された紙コップに口をつけ、中の液体を舌の上で転がすと、果実酒のようなすっきりとした味わいが広がった。

  これがアルコールとはまるで思えない。

  「どうじゃ」

  その様子を眺めていた大型犬が感想を尋ねる。

  「……めっちゃ美味しいです。果物のお酒みたいや。なんか、水みたいにいくらでも飲めてしまいそうですわ」

  「ふん。全く貧困なボキャブラリーじゃな。お前さんみたいな貧乏学生に飲ませるには随分と勿体ない逸品じゃ。よく味わっとくがいい、えぇっ?」

  大型犬はいつもの様子で憎まれ口を叩いてきたが、その頬が少し緩んでいることを猪上はちゃんと気付いている。

  自分の選んだ酒を後輩に褒められて喜んでいるのが、バレバレだった。

  [newpage]

  4

  折りたたみ椅子に腰かけた猪と大型犬の二人の間で、ぱちぱちと七輪が音を立てる。

  頭上の星空と炙ったイカを肴にして、“教授”の選んだ日本酒を二人でちびちびとやるのはなかなか風情があった。

  少々マニアックな宇宙好き二人が顔を突き合わせると、自然と話題は天文方面のものとなった。二日前に木星に最接近したボイジャー1号に始まり、最近発見された彗星や、はてまた二月に打ち上げられた二機の国産の人工衛星の話……。

  “教授”は特に人工衛星について異様に造詣が深く、天文関連一般に広い知識を持っている猪上でも知らないような単語を羅列するので、会話をしていて猪上も何度か舌を巻いた。

  「──全く!『あやめ』の静止軌道投入の失敗はヨーウェイトアセンブリの動作不良なんじゃと!そりゃ第三段ロケットが衛星本体に当たってしまっても無理はないわい!」

  1ヶ月ほど前に打ち上げを失敗した人工衛星の名を上げて“教授”はプンスカと怒っていたが、猪上はその内容についていけない。

  大型犬は、その被毛の白い部分をほんのりとピンクに染めているので、少し酔っているようだ。

  「え、えーっと……“教授”、そのヨーウェ……なんとかって何やっけ……?」

  猪上が聞いたことの無い単語を恐る恐る尋ねると、大型犬はじろりと目を細めて睨むように猪上を見つめて来る。その姿はまるで本物の大学教授のようである。

  「なんじゃ。そんなことも知らんのかお前さんは、えぇっ?」

  「や、やー。不勉強ですんません……」

  不機嫌そうな大型犬の様子に、猪上は怒られると思って首を竦めたが、一方の“教授”は

  「だっはっはっは!宇宙オタクみたいなお前さんにもわからんもんがあるんじゃな!ワシの勝ちじゃ!」

  と突然大口を開けて笑い出す。

  今夜の“教授”はなぜか異様に機嫌がよかった。

  猪上も、

  (な、なんか“教授”らしくもなくちょっと浮かれとるみたいにも見えるけど……?……ま、えっか)

  と疑問を持ちつつも、星空と酒と、“教授”との宇宙談義を楽しむことにした。

  「──なんちゅーか、ですね……」

  猪上の頭にも酒が回ってきて、“教授”と二人してほろ酔いとなり、ふと話題が尽きた頃。

  「もうすぐ、皆さん卒業してしまうやないですか……。なんかボク、それが寂しゅうてしょうがなくて……」

  猪上は、ぽろりと本音を話してみた。

  もちろん「特に、自分が大好きな日ノ隈の卒業が辛いのだ」ということには触れず、うまくぼかして。

  だがそれを聞いた大型犬は、と垂れ下がった片耳をひょいと上げ、口元はうっすらと意地悪く笑って、

  「ふん、お前さんが寂しいとか抜かしとるのはあのアホ熊の卒業じゃろうが。なーにを勿体ぶっとるんじゃ」

  と言った。

  「えっ……なっ……!」

  大型犬の言葉に猪上は目を見開く。

  アホ熊、とはもちろん日ノ隈のことである。“教授”はズボラな日ノ隈のことをあまり好きではないらしく、日ごろから馬鹿にしたようにそう呼ぶのであった。

  一気に猪上の心拍数が上がり、動悸がした。

  顔がかあっと熱くなり、めまいすらするような気がした。

  (ぼ、ボクがタイさんを好きなことは、バレバレやったんか……!?)

  内心で冷や汗ダラダラになってている猪上を見つめて、大型犬は首を捻る。

  「なーに鳩が豆鉄砲食らった様な顔をしとるんじゃお前さんは。お前さんとあのアホ熊は同室じゃからな、仲良いのも当然じゃろが。他の卒業生に気を遣ったんか知らんが、別に隠すようなことでもないわい」

  “教授”の言葉に猪上は内心胸を撫で下ろす。

  (あ、なんや。そういうことかいな)

  “教授”は、猪上が先輩としての日ノ隈が好きだと思っているのだ。

  まあ、普通はそうだ。

  普通、は。

  

  (──男の癖に男が好きなボクは、やっぱどっかおかしいんやろなあ……)

  普通なら、同室の同性の先輩に恋愛感情を持ったりなんかしないし、二人きりでラーメンを食べに行ったりしたくらいで舞い上がったりなんてしないのだ。

  普通なら、先輩の卒業なんかでこんなに辛くなったり寂しくなったりなんてしないのだ。

  (──それもこれも、ボクが異常な同性愛者だからなんや……)

  

  考え込むように黙りこくってしまった猪上を見て、“教授”も口を閉じて七輪の横の空気穴を開き、弱くなった火力を調整する作業を始めた。

  二人の間に沈黙が落ちたが、猪上にとってそれは決して嫌な時間ではなかった。何故か“教授”の発する雰囲気がいつもより柔らかく感じられたからだ。

  猪上は黙って、手の中の酒に口を付けた。

  「……スイングバイ、ちゅーのがあるじゃろ」

  火を調整し終えた大型犬がおもむろに口を開く。

  「へ」

  急に無関係な話を振られて猪上は一瞬言葉に詰まるが、すぐにその言葉の意味を思い出す。

  「アレですよね、ボイジャーちゃんが木星で行うやつ……」

  スイングバイ。

  それは、“重力アシスト”とも“近傍通過”とも呼ばれる、探査機の軌道と速度を変更すための特殊な航法だ。

  天体の傍すれすれを掠めるように探査機を通過させることで、その重力を利用して探査機の運動方向を変更し、加速や減速を行うことができるのである。

  これが無ければ、ボイジャーは太陽の重力を振り切って太陽系外へと向かうことが出来ない。ボイジャーにとって、太陽系外探査を行うために要ともいえる技術だった。今回、ボイジャー1号は木星の重力を使ってそのスイングバイを行うのである。

  「さすがにこれはお前さんも知っとるか」

  ニヤリ、と大型犬は笑いつつ話を続ける。「大抵、あれは一回天体の傍を通ればいいんじゃが、なかなか軌道変更や加速が上手くいかんとな、その探査機は目的の天体の周りをぐるぐると回る羽目になる」

  猪上は頷く。

  探査機の進入角度や速度によって、目指す方向や必要な速度を得るために同じ天体を用いて複数回のスイングバイを行うことがある。当然、探査機はその天体の周りを何周か公転する。そんな知識は彼も聞いたことがあった。

  だが“教授”が何故その話をするのか、その意図がイマイチ読み取れない。

  そんな猪上の気持ちを察したように、大型犬は話を続ける。

  「しかしな、時々俺は思うんじゃよ。俺らはまるでスイングバイをしているようじゃな、と」

  「ボクらが、スイングバイ……ですか?」

  訝し気な猪上に、大型犬は七輪の火を見つめたままゆっくりと頷く。

  その横顔が、強くなった炎の色でうっすらと朱に染まる。

  「そうじゃ。大学という強力な重力を持った天体に引かれて、いろんな場所から色んな輩が集まって来るじゃろうが。そして学生共は、この大学と言う場所で、方向を替え、速度を得て……また、各地へ散り散りになっていく」

  なるほど。

  妙な例えだと思ったが、説明を聞いて猪上は納得する。

  自分たち学生は、大学の周りをぐるぐると回って進行方向を変える、さながら探査機というわけだ。

  「確かにスイングバイみたいですね。方向を変えてどっかに飛び出していくというのが」

  「そうじゃろ?そしてその後は社会という名の外宇宙へ飛び出していく。そう、まるでボイジャーのようにな」

  そこまで言って、ふっ、と大型犬は口の端を吊り上げる。その笑いは少し自嘲気味にも見えた。

  「俺の同期たちも、皆どこかへ行ってしまったからなあ。未だにこの天体の重力を振りきれず、何度もここで周回しとるのは俺だけじゃ」

  「……」

  猪上は目を瞬かせて大型犬の横顔を見つめる。。

  “教授”からこんな話を聞くのは初めてだった。酒が入ったせいか、”教授”はいつもよりずっと饒舌だった。

  この偏屈な大型犬、いつも好き勝手に過ごしているように思っていたが、自分の留年に対して彼自身も思うところがないわけではないのだろう。星の下で酒と炎を囲んで、少し感傷的になっているのかもしれなかった。

  「そしてな、それはこの寮の連中もそうじゃ。いつまでも大学にはおれん。お前さんの好いとるアホ熊も寮長のくそ真面目な犬ッコロも、卒業後は故郷に帰ると言っとるんじゃろう?」

  日ノ隈と、彼女持ちの寮長・三楠(みくす)のことだ。

  「そうですね……。タイさんもミクス寮長も、地元に帰るって言うてます」

  日ノ隈と三楠の二人は西の同郷の出身である。

  内海に面した小さなその街で三楠の実家が小さな造船所を営んでおり、大学卒業後は三楠だけでなく日ノ隈もそこに就職するのだという。

  二人の故郷は、特急電車を乗り継いでも半日はかかる場所だ。学生の猪上にとってはとても遠いところに行ってしまう。金銭的にも、心理的にも。

  卒業してしまえば、彼らと顔を合わせることすら簡単には出来なくなる。

  今はこんなに近くにいて、それこそ飽きるくらいに毎日顔を突き合わせているというのに……。

  「じゃがな、それは仕方のないことなんじゃ。誰しもいつまでも同じ場所にはおれん。何より大学は大部分の者にとってはいつまでもおる様な場所じゃあない。スイングバイをするための天体のようなもんじゃ。中継地点であって目的地じゃない。院に行くでも無ければ、俺のようにいつまでもその周りをぐるぐると回っとるわけにはいかんじゃろうが、えぇ?」

  眉間に皺を寄せて、“教授”が猪上の顔を見つめる。

  どうやら“教授”なりに言葉を尽くして猪上のことを慰めようとしてくれているらしい。

  卒業生が去っていくのは仕方のないことなのだと。訪れるべき別れの季節が来ただけなのだと。

  きっとそういうことなのだろう。

  猪上は星空を振り仰ぐ。あの広い大宇宙に飛び出していく探査機たちのように、先輩たちも、そしていつかは自分も社会へと出ていくのだろう。

  だが、理屈で納得できれば猪上はこんなに悩みはしない。

  とはいえ彼自身も自分がどうしたいのか、どうしていいのかよく分からなかった。

  日ノ隈にこの想いを伝えるべきなのか、隠すべきなのか。それすらも。

  理性では、絶対に言うべきではないと分かっている。しかし感情はそれでは収まらない。ただただ、日ノ隈のことを想うと苦しかったし、切なかった。

  猪上はふと思う。

  目の前の偏屈な大型犬には、そういうことは無いのだろうか。

  「あの、“教授”は好きなヒトとかおらんのですか?」

  普段の猪上ならもう少し用心深く口に出すことを吟味するのだが、酔っていたこともあって思いついたことがそのまま口に出てしまった。

  猪上の唐突な質問に、ニューファンドランド犬は眼鏡の奥の目を見開いて肩を揺らす。

  驚いたらしい。

  「はぁ?なんじゃお前さんは、藪から棒に」

  猪上にとっては藪から棒に、ではない。今までの話題とちゃんと繋がっているのだが、さすがに大型犬はそこまで気が回らなかったようだ。

  (……よう考えたら、そもそもあまりこの手の質問をすべき相手やなかったわこのヒト……)

  と、猪上は訊いておいて大変失礼なことを考えていた。

  「ふん、俺が恋愛なんてくだらんもんに興味があると思っとるのかお前さんは、えぇっ?」

  「ああいや、すんません。全然思ってなかったですけど。“教授”って恋愛とか無縁そうやないですか」

  猪上の間髪入れない返事に“教授”がショックを受けたようにガクリと空を仰ぐ。

  「お、お前さん、俺のこと馬鹿にしとるじゃろ……!」

  “教授”が唸りながら猪上を睨み付ける。

  また口が滑ってしまった。

  「や、やー!ボク尊敬しとりますよ“教授”のこと!大事なお星さま仲間ですからね、ボクは好きやで“教授”!」

  猪上としてはいつもの軽口の延長のつもりだったが、その言葉に“教授”は何故か真面目くさった顔をして、ぐっと口元をへの字に曲げた。

  (し、しもた……。さすがに怒らせたかな……?)

  少し調子に乗りすぎたかもしれない。

  “教授”はむすっとした顔のまま、手にした日本酒をぐいっと煽ると、その顔のまま猪上の方をじっと見つめて低い声で切り出した。

  「……ところで」

  「は、はい」

  「お前さんは、おるんか」

  「ん?何がですか?」

  「……その、ほ、惚れた相手っちゅーか」

  「は?」

  唐突な質問返しに猪上は面食らう。

  まさか“教授”の方からこんな話を振られるとは思わなかった。実際、“教授”は恋愛ごとには全く興味が無いと思っていたし。

  よく見ると、先程より“教授”の目が据わってきていた。だいぶ悪酔いしているのかもしれない

  変に誤魔化すと怒られそうである。

  「……い、います、けど」

  「……ほう。そうか」

  正直に答えた猪上の返事に、“教授”の声がほんの少しだけ変化したが、猪上は気付かなかった。

  「それで、お前さんの惚れとる相手っちゅーのはどんなヤツなんじゃ?」

  「えっ」

  むしろ追撃してくる“教授”に驚いていた。

  「あ、案外グイグイ質問して来ますね“教授”……。め、めっちゃ意外や……ボクの恋愛話なんかにそんな興味津々とは……」

  「ふん。別にお前さんの好きな相手なんぞこれっぽっちも興味無いわい!単なる世間話じゃ」

  そう言って“教授”はぷい、と顔を背ける。

  どうも恋愛に興味があるということは認めなくないらしい。

  (もー。この人はホンマ天邪鬼なんやから……素直に聞きたいって言えばええやん……。子供やないんやから……)

  大型犬の態度に少々呆れ気味の猪上だったが、相手は子供のようなものだと思い、自分が大人になることにした。

  子供相手だと思えば、それほど腹も立たない。

  「え、えーとですね、……ボクが好きなんは同じ学年の女の子っちゅーかですね……」

  さすがに、寮の男の先輩が好きなんです、と暴露するわけにもいかず、嘘で誤魔化すことにする。

  大型犬はむすっとした顔のままだが、垂れ下がった耳が猪上に向けていつもより少し上がっている。やはり興味はあるらしい。

  「ふん。そいつは何学部なんじゃ」

  「や、それはさすがに内緒ですよ“教授”」

  「理系か?文系か?それくらいええじゃろ」

  「え、り、理系です……」

  「ほう。農学部か」

  「え?た、たぶん違いますかね……」

  「なんじゃ。はっきりせい」

  誤魔化そうと口ごもる猪上に、“教授”が不機嫌そうに片眉を上げる。

  猪上は観念する。

  「農学部じゃないです……」

  「ほう。べっぴんさんか」

  言われて猪上は、決して美形ではない同室の先輩熊・日ノ隈の顔を思い浮かべて、

  「う、うーん……美形ではないですけど愛嬌があるっちゅうか……あと、笑顔が可愛いですかね……」

  などとそこは半分本気で思っていることを言ってしまう。

  「ほう。なるほどな」

  などと応える“教授”もちょっと楽しそうである。

  「あとはそうじゃな……身長はどれくらいじゃ」

  さすがに2メートル近いですと真実を答えるわけにもいかず、あまり嘘を塗り重ねるのもバレそうで危ないと考え猪上は慌てる。

  「ちょ、ちょっと待ってや“教授”!もしかしてボクの好きなヒトを特定しようとしてません!?」

  焦った猪上の声に、大型犬はくつくつと笑う。

  「ええじゃろが、それくらい。単なるおふざけじゃ」

  珍しい。

  あの偏屈でヒト嫌いで気難しい“教授”が。

  楽しそうに笑って。

  しかも、ふざけているだと?

  恐らくこの雅山寮で“教授”とまともに会話を機会が一番多いのは猪上だろうが、それでもこんなに上機嫌な姿を目にするのは、彼も初めてだった。

  (そ、そんなにボイジャーちゃんが木星に最接近したことが嬉しかったんやろか、このヒト……?)

  猪上がそんなことを考えていると、

  「──なあ、イノウエセンジロウ」

  低い声でフルネームを呼ばれた。

  ふと見ると、黒白の大型犬はじっと七輪の火をじっと見つめて、真面目な顔をしていた。

  「なんですか、“教授”。……やー、なんか今日は意外尽くしですわ。まさか“教授”が僕のフルネームを覚えてくれているとは思ってませんでしたよ」

  猪上は返事をしつつ、そんな減らず口を叩く。実際、今まで“教授”にはお前さん、としか呼ばれた記憶しかなかった。

  「お前さん、俺のことをなんだと思っとるんじゃ……。名前くらい覚えとるわ」

  大型犬は渋い顔をするが、そこまで不機嫌ではなさそうだった。

  猪上は酔った勢いで“教授”をからかってみる。

  「もしかして、“教授”って自分が変わり者って自覚あんまり無いです?」

  「……ふん。そんな俺にこうして付き合っとるお前さんも相当な変人だと思うがな!」

  「やー!確かにそれもそうっすねえ」

  おかしくなって猪上は笑う。

  “教授”は酔っぱらって楽しそうにしている猪の顔を見つめ、おもむろに口を開いた。

  「……センジロウ」

  「ほいほーい。なんですか“教授”!」

  猪上はおどけて右手で敬礼をとるが、大型犬は真面目くさった顔をしたままだった。

  「お前さん。もし、その、俺がそのうち──」

  何故か真剣な目をした“教授”が、途切れ途切れに言葉を紡ごうとしたその時だった。

  ばん、と再び寮内と屋上を繋ぐ鉄扉が勢いよく開いたのは。

  「──おおー!イノセーン!こんなとこにおったんか!……って、おりょ?よぅ見たら“教授”もおるじゃないですか!」

  屋上に出てきて、開口一番朗らかな大声を上げたのはジャージ姿の大柄な熊獣人。

  日ノ隈だった。

  その片手には、いつものごとく酒瓶が握られている。

  「あれタイさん!?いつの間に起きたんですか!?」

  「……ちっ、アホ熊め……」

  日ノ隈の姿を認めて、嬉しそうに目を丸くする猪と、舌を鳴らして不機嫌そうに唸る大型犬。

  まるで対照的である。

  日ノ隈は猪上の方を見てニッと笑う。

  「おーう、よう寝て随分元気になったけぇ、食堂でリュウやトラのヤツと酒盛りしとったんよ。イノセンも一緒にどうかと思っての、探しとったんじゃて」

  日ノ隈はご機嫌そうにニコニコとしながら二人の方に歩いてくる。既に彼もほろ酔いのようだ。日ノ隈は、猪上と“教授”の間に置かれた七輪に目を落とした。

  「ほー珍しい、七輪じゃ。二人してぶち楽しそうなことやっとるのぉ。これ誰のもんなん?」

  そう言いながら、日ノ隈はひょいとしゃがみ、七輪の上で炙られていたゲソの一つを摘まんでパクリと食べてしまった。

  あまり行儀がいいとは言えないその行動に、“教授”が苦々しい顔をする。

  「……そいつは俺のじゃ」

  そう言う“教授”の声は、先程まで猪上と話していた時とは打って変わって絞り出すように低い。

  「おっふ、ひょうひゅのひゃったか、ほりゃあひつれい(“教授”のじゃったか、こりゃあ失礼)、はふっ」

  一口に食べたゲソが相当熱かったらしい。日ノ隈は口に手を当ててハフハフと言いながら“教授”に返事をするが、相手は不機嫌そうな顔をしたままである。

  それを見て猪上は察する。

  どうやら“教授”は本当に日ノ隈のことがあまり好きではないらしい。

  だが日ノ隈はそれに気づいてないし、恐らく“教授”に嫌われているなどとは夢にも思ってもいない。この酒好きの熊は、そういう能天気な男なのである。

  日ノ隈は、ごくん、と口の中のモノを飲み干すと、満面の笑みを“教授”に向ける。

  「いやぁ、ごちそうさんですわ“教授”。せっかくじゃけえ、“教授”も下で俺らと飲みませんかの?」

  「……結構じゃ」

  “教授”は苦み走った顔で日ノ隈の誘いを断るが、日ノ隈は

  「えー?なんでじゃあ“教授”ぅー!もうワシらの卒業も近いことじゃし、あんましこがぁな機会もそうそう無いですし、今夜は一緒に飲み明かしましょうで“教授”ぅ!」

  などとご機嫌で、がはは!と笑い、折り畳み椅子に座っている大型犬の肩に腕を回してしまう。

  完全に絡み酒である。

  そのやり取りを見ていた猪上は、“教授”が怒り出しやしないかとハラハラした。

  だが“教授”は片手でぱしりと日ノ隈の手を払うと、

  「俺はええと言うとるじゃろ。ほれ、センジロウ、さっさとこのアホ熊を連れていけ」

  と、ぶすりとした顔で猪上に向けて言っただけだった。

  「は、はい!了解ですわ“教授”!」

  猪上は返事をするが早いか、急いで自分の天体望遠鏡のところに戻り片付け始めた。

  あまりこの熊と大型犬を、アルコールが入った状態で一緒にしておかない方がいい気がした。

  滅多に無いことだが、酔っ払っている日ノ隈は虫の居所が悪いと暴れることがある。泣いたり笑ったり怒ったり、とにかく感情のセーブが出来なくなるタイプの酔い方をするので、彼のことを邪険に扱う“教授”とはおそらく相性が悪い。

  猪上が天体望遠鏡のレンズに蓋をし、三脚から取り外してケースにしまい、背中に担いだところで、

  「……のう、イノセン」

  いつの間にか、後ろに日ノ隈が立っていた。

  「わ、タイさん!」

  「“教授”ったら妙にワシに冷たいと思わんか~!?ワシ、大ショックじゃ~!!」

  などと、日ノ隈は大声で嘆きながら猪上に抱きついてくる。

  (お、重たっ!酒くっさ!)

  そう思いつつも、日ノ隈の身体と密着したことで猪上の短めの尻尾は勝手に反応して、嬉しそうにぴこぴこと横に振られてしまっていた。

  「た、タイさん、“教授”と何か話したんですか……?」

  日ノ隈は猪上の身体から離れると、その肩をがっしと掴んだ。

  「いやな、ワシ、『せっかくの星空じゃけぇ星でも教えてつかぁさい』って言うただけなんじゃが!そしたら“教授”のやつ、馬鹿にしたように鼻で笑っただけでの!ワシ、そがぁに悪いこと言うた!?」

  「あー……なるほど……」

  星でも、という言い方が“教授”は気に食わなかったのかもしれない。それに“教授”と天文関連について話す際は、ある程度の知識を持っていないと彼は不機嫌になってしまうのだ。

  「えー!?何が『なるほど』なん!?飲みの誘いも断られるし、もうワシゃあぶち悲しうて悲しうて……!」

  今にも泣き出しそうな顔をする日ノ隈。

  猪上は(んな大げさな……!)と心の中で言いつつも、この熊は酔うとちょっとしたことで本当に泣き出すということを思い出す。

  なので、彼を慰めようと一つの北の星座を指さした。

  「まーまータイさん!そしたらボクが教えますよ、タイさんにピッタリなやつ。ほらあれ!北斗七星ならタイさんも分かるやろ?北極星を中心に回る、おおぐま座の一部や」

  猪上から明るい声をかけられた日ノ隈は一瞬きょとんとするが、瞬きを数回すると猪上の指差した先を振り仰ぐ。

  “星空の案内役”とも呼ばれる北斗七星は、それを構成する星々の明るさと特徴的な形状から、慣れない者でも見つけるのが比較的簡単な星座の一つだ。

  案の定、日ノ隈もすぐに嬉しそうに声を上げる。

  「おお、わかった!あれじゃろう!」

  ひしゃく型の星座を見つけて子供の用に目を輝かせる酔っ払い熊を横目に、猪上は講義を続ける。

  「そうです、アレです。そいでですねタイさん、あの柄の先端のカーブをそのまま伸ばしてくと、めっちゃ明るい星があるでしょ?」

  猪上が指をゆっくり動かすと、日ノ隈もそれに合わせて視線を巡らせる。

  「カーブ……。……お、あれかの?ちいと離れて、明るいのが二つあるのぉ」

  「そうです、離れたところに二つ。北斗七星から近い方が牛飼い座の“アークトゥルス”、遠い方がおとめ座の“スピカ”っちゅう一等星ですわ」

  「ほー。あーくつるすに、すぴか……」

  「ほいでですねタイさん、アークトゥルスは“熊を護るもの”って意味からつけられた名前なんですわ。まるでおおぐま座の後を着いてくるように動きますからね……どやろ?熊のタイさんにピッタリなお星さまやないですか?」

  猪上はそう言って、夜空を熱心に見上げている大柄な熊の顔を盗み見た。

  ──やっぱり、日ノ隈のことが好きだ。

  どうしようもないくらいに、好きだ。

  でも、今はこんなに近くにいるのに。

  あと少し。

  あと少しで離れ離れになってしまう。

  まるでスイングバイを行う探査機のように、日ノ隈は猪上の前から飛び去っていく。

  その顔を見ているだけで、胸が締め付けられるような気がした。

  何かを言いたくて。

  でも、何を言えばいいのかはわからなくて。

  その身体に触れてみたくて。

  でも、そんなことが許されるはずも無くて。

  猪上は胸の痛みを抱えたまま、ただただ、黙って日ノ隈の傍に寄り添うしか出来なかった。

  

  ややあって、日ノ隈が猪上を見下ろして、ニッコリと破顔する。

  「イノセンはよう星を知っとるなあ。イノセンみたいな先生じゃったら、ワシももう少し高校の成績が良かったかもしれんの?」

  大好きな日ノ隈にそう言ってもらえたのが嬉しくて、猪上はかあっと頬が熱くなるのを感じた。

  「い、一応ボク、教育学部やし!……なんやタイさん、工学部のくせに理系科目が苦手だったんですか?」

  だがそれを悟られない様に言った猪上の軽口に、日ノ隈はげんなりとした顔をして頬を掻いた。

  「高校の頃のワシ、物理はまあそれなりじゃったんじゃが、生物と地学はからっきしでの……。受験に使わん科目でホンマ助かったわ」

  「よく理系で受験しましたねタイさん……」

  呆れた様な猪上の言葉に、日ノ隈は大口を開けて笑う。

  「がははは!まあワシにも一応なりたい職業があったけぇの!こう見えて受験勉強はちゃぁんとやったんじゃぞ?」

  「今とは大違いですね。毎日酒ばっかり飲んで……完全に堕落しましたね」

  「ええんじゃて。もう就職先もばっちり決まってるけぇの!ほれイノセン!そろそろ下行って飲むぞ!」

  「あだっ!ちょっとタイさん!ボク望遠鏡持っとるんですからあんまり寄りかからんでくださいよ!」

  「イノセンはよう出来た後輩なんじゃけぇ、ワシみたいなダメ先輩をしっかり支えんと~」

  「褒めてもダメですよタイさん!」

  「……この太ってばかりのデブ猪めが~」

  「だからって貶めてもダメですわ!!」

  

  大柄な熊が丸い身体をした猪の肩に腕を回し、引きずるようにして屋上の扉に入って行く。

  ワイワイと言い合いをしながら、それでも楽しそうに去って行く二人の後ろ姿を見つめながら、一人残されたニューファンドランド犬の獣人──“教授”は、静かに鼻を鳴らした。

  「ふん。色恋沙汰なんぞ全くくだらん……、無駄でしか無いわ……」

  負け惜しみのようにそんな唸り声を発しながら、再び彼は望遠鏡を覗きこんだ。

  まるで捨てきれない何かを忘れようとするかのように。