「灰色の森」
一方その頃、ブラムは川の前にいた。
肩の上にはマリが乗っている。まだ、温かいし息もある。心臓も動いている。
先程、止血は済ませたばかりだから、これ以上の出血はないはず。
問題は、自分たちの痕跡をどう消すかだ。
マリの血痕による道しるべは、ここで途切れさせることができるにしても、問題はまだある。
匂いだ。
恐らく、あの白髪の男も人狼のはず。
魔物の多くは人間よりも鼻が利くが、人狼はその中でも特に嗅覚に優れている。
程度こそ知らないが、このまま何も対策をせずに地面を歩いたのでは、すぐ見つかってしまうことは目に見えて明らかだ。
「やっぱり…」
ブラムはそう独り言をつぶやきながら、川の方を見た。
適切な対策だという確証はないが、何もしないよりはマシだ。
「一か八か。やってみよう」
ブラムは自分に言い聞かせると、マリの身体を抱え直し川の中に足を踏み入れた。
流れはそれほど速くないが、水は驚くほど冷たい。
ブラムは悲鳴を上げたくなるのを必死でこらえ、川の中に入っていった。
中央に差し掛かるつれ水深は深くなり、最終的にはブラムの胸の高さにまでなった。
ブラムはできるだけマリを濡らさないよう、彼女の身体を腕をめい一杯伸ばした高さまで持ち上げた。
幸いなことにマリの身体は驚くほど軽かったが、背中にかけた彼女の剣はワインが大量に詰まった樽のように重かった。
この軽い身体のどこにこんな重い剣を振り回す力が宿っているのだろう。
ブラムは川を渡りながらそんなことを考えた。
ようやく川を渡り終えると、彼は再び草むらの中に隠れ彷徨い歩いた。
足はすでに寒さで感覚がなくなっていた。
足だけでない。ブラムは、しだいに全身の感覚を失い始めていた。
しばらくすると、何度かふらつくようになり、危うくマリを地面に落としそうになった。
やがて彼は地に膝をついたまま動かなくなった。
「くそっ!何で動かないんだよ?」
ブラムは、そう言いながらマリを地面に横たわらせると自分の足を手で殴り始めた。
「動けよ!動け、動け、動け!」
だが、足の感覚は戻らない。
「うごけうごけうごけうごけうごけうごけ!」
ブラムは、眼に涙を浮かべながら何度も足を叩いた。
自分は死んでも構わない。だが、マリには生きて欲しい。
このまま、ここに彼女を放置していたら、いずれ彼女も凍死してしまう。
それだけは絶対に嫌だ。
ブラムは、半狂乱になりながら足に命令したが、結局足がピクリと動かず、ブラム自身の意識もしだいに遠のいていった。
やがて、彼は地面にうつ伏せに倒れた。
涙でいっぱいになった目でマリのいるであろう方向を見る。
「ごめん、マリ…」
そう言うと、ブラムはゆっくりと目を閉じた。
気がつくとブラムは森にいた。
先程までいた針葉樹の森と違い、そこに広がっていたのは枯れた灰色の広葉樹の森だった。
灰色なのは、木だけではない。
地面や空も同じ色だった。
生き物の姿や気配はない。
ブラムは、自分の手元を見た。
灰色の世界で白い手袋が不気味なまでにクッキリと見える。
「おお、ここにおったか」
突然声がしたため、ブラムはそれが聞こえた方を見た。
そこにいたのは、一人の人狼の男だった。
艶のないボサボサの毛、耳はダラリと垂れ、背がまがり、銀色に光る杖を頼りに何とか立っているような立ち姿だ。
随分と年老いているらしい。
「探したぞ。さあ、こっちに来なさい」
人狼はそう言うと、後ろに身体を向けた。
「待って、あなたは誰?」
ブラムは歩き出そうとする老狼に問いかけた。
「ワシは、リュカオン。マリの友人だよ、ブラム君」
人狼は振り返りながら答えた。
「マリの友達?いや、ちょっと待って。どうして僕の名を…?」
「ワシは干渉者だからだよ」
「干渉者?」
「そう。君なら、いずれ理解できる日がくるだろう。それよりも今はマリに会いに行かないとね」
マリ。その名がブラムの頭の中で反響した。
「そうだ、マリ…!
マリは、どこなの?早くしないとマリが死んじゃう!」
そう言いながらブラムは駈け出そうとした。
だが、次の瞬間、リュカオンが杖をサッと振り上げて彼を制止させた。
「まあ、慌てなくともよい。彼女は、もう安全だ。何も心配はいらない」
「本当なの?」
ブラムは、ソワソワしながら尋ねた。
リュカオンは、ゆっくりと諭すようにうなずいた。
「ついて来なさい」
人狼はそう言うと、森の奥に向かって歩き始めた。