男性は、いつもの様に目を覚ました。
決まった時刻に、目覚まし時計のベルや鳥の声を聞くこともなく。
その起床自体が、習慣であると言えた。
起きた後の行為も、いつもと何ら変わりない。
顔を洗い、眠気を払う。
食卓へ行き、湯気を立てる炊飯器の前を通り、ポットに水を入れてお湯を沸かす。
しかし、その後の行為はいつもと違っていた。
食事を支度をするまえに、一旦彼は仏壇がある広い座敷へと向かう。
静かに戸を開けると、そこには布団の上で静かに寝息を立てる6人の少年少女がいた。
やや大人びた子もいれば、幼児と言っても差し支えない子もいる。
行儀よく眠る子もいれば、布団を蹴飛ばしいびきをかく子もいる。
夜遅くまで起きていたようだから、まだ起こさないでやろう。
個性的な6人の孫たちの顔を見た男性は、にっこりと微笑み、食卓へと戻った。
そして、いつもより多めの食事を作り、着替えて軽トラックに乗り、畑へと向かった。
いつものように、両隣に木々が生い茂る細い道を難なく走る軽トラック。
いつもと違い、運転手の心は軽い。
昼にはいったん帰ろう。昼ごはんは、孫が作ってくれるから楽しみだ。でも、今日の夕方には帰らないといけないのか。寂しいな。
そんなことを考えてると、太陽が頭の端を山から出した。
いつもより、明るい。男性は、そんな気がした。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
太陽の光を水平に浴びながら、早朝の空をヘリが走る。
春とはいえ、肌寒さを感じる時間帯だ。しかし、ヘリに乗る瀞の体は汗ばんでいた。
原因は、闘争の余韻のみでない。新たに命ぜられた任務の内容が、瀞に不安と焦りを生じさせていた。
初任務の前や、殺人を課せられた時よりも強いかもしれない緊張感により、体からは汗がにじみ出ていく。本来ならば、人を殺すことなく、キメラの大群を倒すことができて安堵できるはずなのだが。
「もっと早く進まないんすかね?」
そんな時、風丸が口を開いた。重い沈黙を破る明るい声で。
「最高速度だ。もうすぐ着く」
和虎の声にも、力が籠っている。気のせいではないだろう。
「しっかりと休んでおけ」
「もう大丈夫っす!」
風丸はびしっと敬礼した。意図して明るく振る舞っているようだ。
「お前の大丈夫は、大丈夫じゃねえからな」
瀞は皮肉を言った。風丸は、すぐに反応した。
「傷だらけのお前に言われたくねーよ。ぼろぼろじゃん。輸血してこい」
「俺は、本当に大丈夫だ」
「瀞の大丈夫は、俺よりも大丈夫じゃねーし。つーかさぁ、本当に、とか付けたらもっと怪しくなるぞ」
「うっせえ」
いつもの調子での会話ができたことが、瀞は嬉しかった。これで、緊張が少しはほぐれる。
「どっちもどっちじゃない」
空は銃を点検する手を止めて呟いた。空も緊張しているらしく、さっきから銃をしきりに触っている。
「ちょ、空、ひでーよ」
「空は味方だと思ってたんだけどな」
「敵に回ったわけじゃないでしょ、もう」
三人で笑い合えば、心が落ち着く。
それでも、不安は完全に消えてくれない。
「もうすぐ到着だ。くどいようだが、民間人と出会った時はマニュアル通りに対応しろ」
和虎が強い口調で言い放った。行動を阻害することなく、集中力を高めてくれる心地よい緊張感が体中に漲る。
「助けないとね」
ふと、隣の空が呟いた。
「ああ。でも、まぁ、きっと無事だろ。獣人なんだし。俺たちだって、初任務で死ななかったし。町にも行ってねえよ、きっと」
「うん。あと、瀞は久しぶりに、友達と会えるかもね」
「こんな形で会うとはな」
喜びたいところだが、そういうわけにもいかない。そんなもどかしさを感じながら、瀞は苦笑した。
ヘリの中で、瀞たちは無線で新たな任務の説明を受けた。
中国地方の某県にて、未確認生物の目撃情報が多発した。狼に似た獣の影、地を這う巨大な蛇、2メートルを超える巨人など、尾ひれがついた噂が飛び交い、連日ネットを賑わせて特集番組までも放送された。
僅かだがキメラの可能性があると判断したBATが噂を辿った結果、山の麓にある小さな田舎町が発信源であることが発覚した。住民によると、畑を酷く荒らされたり、空き家が壊されるといった事件が時折発生しているとのことだった。
BATの判断は早かった。中国・四国地方を担当する08部隊が出動し、BATの機動隊が封鎖した山の調査を開始した。
そして、07部隊が七里のビルを取り囲む数時間前に、08部隊はキメラと遭遇し、交戦に入った。
無線から流れていた教官の声が、そこでいったん止まった。
「08部隊がキメラと戦って、どうしたんですか?」
瀞は続きを催促した。普段の瀞ならばそんなことはしないが、任務を途中で投げ出すことになったので、少々苛立っていたのだ。
自分たちの戦いなのだから、自分たちの手で最後までやり遂げたかった。
「そう焦るなよ」
風丸が、汗を拭きながら言った。ついさっきまでは息絶え絶えだったが、すでに呼吸は落ち着いている。チーター特有の弱点解消までには、まだ時間がかかるようだ。からかいたかったが、傷だらけの自分には残念ながら資格がない。
「何か問題が起こったのか?」
『・・・・・・そうだ』
和虎が質問すると、教官の声が再び無線から聞こえてきた。先ほどまでよりも、重々しい口調であることは無線越しでも分かった。
問題という単語で、瀞にも緊張が走った。
(中国地方の別の場所で、キメラが出たのか?08部隊は今、手が離せないから、俺たちの出番ってわけか)
瀞はそう予想し、教官の次の言葉を待った。しかし、告げられた結果は予想とは大きく異なっていた。
『08部隊との連絡が途絶えた』
教官の、その一言の後、ヘリの中の空気が変わった。
(え、それって、まさか・・・・・・)
最悪の結果が脳裏によぎる。しかし、瀞は口を出さずに教官の次の言葉を待った。
『その後、現場の山を包囲しているBATの機動隊、8つの部隊の内1つから連絡が来た。キメラ接近、と。しかし、その部隊との連絡も途絶えた。別の部隊が応援に駆け付けたが、遅かった。キメラの襲撃を受けた部隊は、全滅していた。キメラの姿はすでになかったが、現場に残された血痕から、どうやら山から離れていったようだ。人が住む、町の方へと』
瀞と空、そして風丸、三人の目は見開かれ、体毛が大きく逆立った。驚愕を体現したかのように。
「キメラが町に?」
「全滅って」
「08部隊は?」
「落ち着け。続きを頼む」
動揺する部下に一言告げる和虎は、普段通りだ。無論、隣の賢士も。
『BATは即座に、広範囲に包囲を広げた。キメラの移動速度は、かなりのものだからな。移動ルートも問わんだろうから、主要道路だけでなく、鉄道、山岳地帯や森林までもカバーしている。新たに包囲を突破されたという報告は無い。包囲の外での目撃情報もない。現時点では、キメラは新たな包囲の内側にいるとみていい』
「民間人は無事か?」
和虎の問いは、瀞たちも思っていたことだ。BATの対応の速さを考えれば、無事という答えが返って来るに違いないと、そう思った。
だが。
『断言できない。キメラの目撃情報の出所である町は、包囲の内側にある。山の麓だから、機動隊の包囲を突破された30分後には、おそらくキメラが到達しただろう』
「えっ」
「そんな」
「マジかよ」
「救助部隊は向かわせたのか?」
和虎は部下の動揺を制するかのように、教官に聞いた。
『もちろん向かわせた。だが、連絡は途切れた』
瀞は口に溜まった唾液をごくりと飲み干した。まだかすかに血の味がした。
『事態は急を要する。だからこそ、中国・四国地方に隣接している、九州の07部隊と近畿地方の03部隊を向かわせることにした。目的は、民間人の救助、キメラのせん滅、08部隊の安否確認だ」
「え、03部隊も来るんですか?」
瀞は思わず聞き返した。
『07部隊と違い、待機中だったから既に出発している。合流し、任務に当たってくれ。頼むぞ!』
「やっぱ、全滅しちゃったんですかね、08部隊」
風丸がぽつりとつぶやいた。
「お前な・・・・・・」
瀞は風丸を鋭い目つきで睨んだ。その言葉は、流石に笑って聞き逃すことは出来ない。
いつも力強い言葉で叱りつけて来る教官だが、先ほどの無線から聞こえてきた声には僅かに悲痛な感情が込められていた。それほどの事態なのだ。
そんな状況下で、不吉な空気を助長させる発言は聞き逃せなかった。
「あ、わりい」
風丸も失言と思い、素直に謝った。
「全滅の可能性は高い」
すると、瞑想していた賢士が目を閉じたまま口を開いた。
「08部隊の隊員を戦力には入れるな」
淡々と一言そう告げて、再び黙り込んでしまう。
その言葉の心の中で反芻させた瀞は、躊躇いなく反論した。睨む程度では気が済まない。
「いや、戦力に入れるとかじゃなくて」
「純粋に、心配なんだろう。08部隊が」
苛立った瀞の言葉の続きを、和虎が言った。瀞を止めるように。
「そうです」
瀞は即答した。
味方の安否よりも、戦力として当てになるか否かを重視することなど、瀞には出来なかった。そんな行為は許せなかった。何よりもまずは、仲間の命を重視すべきなのだから。
「それは皆も同じだ。もちろん、賢士もな」
和虎は、有無を言わせない表情でそう言った。瀞よりも険しい顔で。苛立つ部下の眼を射貫くように真っすぐ見据えて。
「・・・・・・はい」
こうなってしまっては、瀞は頷くしかなかった。
しかし、和虎の言葉を信じずに頷いたわけではない。気圧されたのも事実だが、絶対の信頼を置く和虎の言葉なのだから。しかもその両眼には、信じろと言わんばかりの光が籠っている。そうなんだと思いながら瀞は頷いたのだ。
(まぁ、冷たいこと言うけど、任務では確かに、今回も前の時も助けてくれたしな)
「だが、俺たちは兵士だ。仲間の安否を気遣いながらも、任務を優先しなければならない。思考も、行動も、キメラを排除し一般市民を守るということに向けなければならないんだ。俺たちは、例え非情と思われようと、使命は果たさなければならないんだ」
和虎はゆっくりと、力強く言葉を続けた。
そう。キメラの魔の手から罪のない人々を、力のない人間を守ることこそが、獣人兵士に課せられた使命なのだ。
獣人である自分たちが、やらねばならない。
「賢士の言うとおり、08部隊の全滅も視野に入れなければならない。03部隊も、離れた地点に降り立っているから合流は先になる。しばらくは、07部隊のみで戦わなければならない。いつも以上にやっかいな敵と、だ。それだけじゃない。既に一般市民にキメラの手が届いているのかもしれない。もう手遅れかもしれんが、生き延びて助けを求めている人が一人でも残っていたら、全力で救い出すんだ。そして、一刻もキメラを全滅させて、これ以上の被害を食い止める。初任務とは訳が違うぞ。気を引き締めるのはいつものことだが、いつも以上に引き締めろ。想定外のことが必ず起こると思え。いいな!」
「はい」
「分かりました」
「りょーかい!」
和虎の激を聞き、瀞は身が引き締まる思いだった。無論、空も風丸も同じだった。
そう、果たすべき使命が明確ならば、いちいち他者の発言で苛立ったりしないはずだ。
(不安だから、イライラしてたのかもな)
瀞は自身の苛立ちの原因を理解し、それを把握したうえで取り去ってくれた和虎に心の中で感謝した。
「そーいや、隊長。08部隊は、なんで、その、やられたんすかね?やっぱ、キメラがめっちゃくちゃ強いから?」
先程より、言葉を選んだ風丸が和虎に聞いた。
「そうとは限らんな。個々の戦闘力が弱くても、特殊な能力を持ったキメラの報告例はいくらでもある。周囲に擬態する、他の生物に寄生する、地中や水中に潜む、とかな」
「あー、そーゆーキメラの罠とか作戦に、完全にハマってしまうパターンですかね」
「そうだ。新型のキメラだと、どんな動きをしてくるか分からないからな。隊員たちの能力との相性もあるだろう。数が圧倒的に多い、という事もあり得る」
「なるほどねー」
風丸は納得して頷いている。
「でも、キメラの戦闘力がめっちゃ高いって可能性もありますよね」
「ああ。純粋に力で押し負けてしまうとなると、やっかいだ。策に頼るしかなくなるからな」
「そーですね」
「そんな奴らと戦わないといけないんだよなぁ」
「まぁ・・・・・・相手がどんな奴だろうと、やることは変わらんさ」
和虎は不適に笑い、拳を固く握りしめた。
「斬り殺すまでだ。相手がどんな奴だろうとな」
凶悪さを孕んだ笑みだが、しかし瀞たちは恐怖など感じず、頼もしいと思った。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
正にそこは、地獄のような状況だった。
どこに視線を向けても死体が転がっている。切断された手足、折れて露出した骨、飛び散った血液、零れ落ちた臓腑。凄惨なものばかりだ。
加えて、むせ返るような臭いが辺りに充満している。血に内蔵、排泄物のものまでもが混じり合った、初体験となる悪臭だ。それは全身を包み込んで体内に侵入し、内蔵を締め付けて来る。
視覚と嗅覚を同時に刺激されれば、不慣れな者は耐えられるはずもない。
「ぐ・・・・・・ぅおえっ」
壁に手を付き、和田はヘルメットを脱ぐと、再び嘔吐した。もう胃の中には消化されてない食物は無く、胃液のみが飛び出て来る。
「おい、大丈夫か?」
同僚から心配と同情の声を掛けられても、心が安らぐはずもない。吐き気が止まるはずもない。この臭いも光景も、消えることはないのだから。
「ああ・・・・・・」
そう返事をしつつ、和田は内心で思った。大丈夫なわけないだろう、見れば分かるだろうと。
(まぁ、馬鹿にされたり笑われたりするよりマシか)
そんなことを考えながら、和田は腰を上げた。
07部隊が去った後の七里ビルへ、即座にBATの機動隊が突入した。目的は生存者の救助とキメラの掃討、そしてキメラ事件に関する情報の収集だ。
既に1階の安全は確保された。既にキメラの姿は無く、七里が雇った傭兵はキメラに殺害されている。
その後、機動隊は3つの班に分けられた。A班が2階へ、B班が地下へと向かい、C班は1階の調査を開始した。調査員の資格を持つ隊員は書庫やデスクに納められた書類をあさり、壊れていないパソコンを起動させてデータをくまなく調べている。
一方、その他の隊員たちは遺体の確認を行っていた。機動隊がビルを包囲した後、ビルを出入りした人物はいない。この時間に、ビルの内部にいるはずの人物の死体が全てこの場にあるのか、確認する必要があった。
社員の勤務内容や出欠に関するデータは既に解析できているため、名簿は簡単に作り出すことが出来た。あとは該当者の遺体を探すだけなのだが、それが困難を極めている。
七里の職員と傭兵は、体をリッパーによって切り刻まれ、ブラックハウンドによって噛み千切られている。どれも損傷が激しく、原形をとどめていないものもある。遺体確認の役割を担った隊員たちは、そのような死体を1つ1つ見て回らなければならない。
(こんなこともしないといけないなんて。説明はされていたけど、これは、思っていた以上だな)
入隊2年目の隊員である和田は、戦闘区域の包囲は経験しているものの、遺体確認の任務に就いたことは過去に一度もない。ましてや、本物の死体を目の当たりにするなど、初めての経験であった。どこを見ても視界に亡骸が飛び込んでくる状況に立たされ、平気でいられるはずがなかった。
それでも和田は込み上がって来る吐き気と格闘しつつ、任務を遂行すべく同僚の背中を追いかけていた。
「あぁ、こいつもひでえな」
同期の隊員であり、親友でもある後藤がスーツを着た女性の左腕を持ち上げながら言う。傷口からは血が滴り落ちており、露出している骨と肉片がぶら下がっていた。その隣では、古参兵である深田が無言で右腕を持ち上げて遺体袋に入れていた。買い物でもしているかのような手さばきだ。
「ぐっ・・・・・・」
吐き気に加えて、頭痛や腹痛までもが和田を襲う。たまらず和田はその場に跪き、動けなくなってしまった。もはや、この場にいることは不可能だ。
「どうします?」
仲間の限界を悟った後藤の問いに、経験豊富な深田は動じずに答えた。
「そこの便所にでも連れて行って休ませておけ」
叱ることはないが、冷たい対応だった。しかし、重要な任務の真っ最中なのだから仕方のないことだ。
後藤に連れられ、和田は3メートル先の男子トイレへと歩く。生まれたての小鹿のような足取りで。
男子トイレの中は、芳香剤と換気扇の効果のためか外部ほど死臭が立ち込めていなかった。無論、良い香りとは言い難いが。
「外よりはマシだな。ここで吐くだけ吐いて来いよ」
「あ、ああ。悪いな」
トイレから出る後藤の背に、何とか感謝を述べつつ和田は壁にもたれかかって座り込んだ。
一人トイレに残されたが、1階の安全は確認されているのだから、心細いとは思わなかった。むしろ、少しでも地獄から遠ざかることが出来て安堵していた。
(便所に来て安心するなんて、どういう状況なんだか。しかし、なんであいつ、あんなに平気なんだ?それに比べて、情けないな、俺は)
初体験なのだから、やむを得ない。そう自分に言い聞かせても、真面目な和田は自分を責めずにはいられなかった。同期の後藤が平気なので、その思いはより大きく膨れていく。
(少し休んだら、行かないと)
和田は立ち上がると洗面台の前に立ち、ヘルメットを脱いで蛇口を捻った。冷水を手ですくい、顔を何度も洗って口をゆすぐ。僅かだが、荒れた精神が回復していく。
「ふう・・・・・・」
水滴を手で拭い、顔を上げる。目を閉じていると、先ほどまでの光景が瞼の裏に蘇り、再び吐き気に襲われる。
(嫌だなぁ)
四方に血が飛び散り、足元には肉片が転がっている廊下に出るくらいなら、トイレに籠っている方がいい。だが、そうは言っていられない。自分はBATに所属する隊員なのだから。任務を果たさなければならない。
(行かないと)
和田は目を開けた。
鏡には、自分の顔が映っていた。そして、自身の背後に立つ血まみれの中年男性の顔も。
仰天すると同時に、口を押えられ、首を締め上げられる。
抵抗することも、叫び声を上げる出来ず、和田の意識は闇に消えた。
「こいつで最後ですね」
七里ビル1階にある、南西の端の会議室にて、傭兵の死体を指さして後藤は深田に話しかけた。
傭兵の死体は自動小銃を握りしめており、周囲には空の薬莢とブラックハウンドの死体も転がっている。1体はなんとか仕留めることが出来たようだが、すぐに別のキメラにやられたらしい。
「ああ」
深田は右腰のポーチからスマートフォンを取り出し、1階にあった死体の数を入力した。
「数だけでいいんですね」
「本人確認が出来ない死体が多いからな。1つ1つDNA鑑定するのも面倒だ。数が合っていれば、とりあえずそれでいい」
「へえ」
二人が会話を交わしていると、和田が会議室に入ってきた。
「すみません、遅くなりました」
足取りは弱々しく声にも力が無いが、吐いてばかりで何も出来なかった数分前の状態よりは回復しているらしい。
「大丈夫かよ。こないだの歓迎会の時より吐いてたじゃねえか。またトイレの床にぶちまけてきたのか?」
「ああ、またやらかしちゃったよ。つーか、あの時の方がまだマシだぜ。今回やべえ」
後藤の冗談に、和田は笑いながら応じた。
「無理はしなくていい。戦闘が無いとは限らないんだ」
「いえ、もう平気です」
和田は右腰の拳銃に触れながら言った。
「そうか。便所に死体はあったか?」
「いいえ。女子トイレも見ましたけど、死体はありませんでした」
「お前、こんな状況じゃなかったら痴漢だぞ」
「こんな状況だから痴漢じゃねえよ」
その後、BATの機動隊による七里ビル内の探索は問題なく進んだ。
BATの調査員、七里の職員、そして傭兵やキメラも全滅しており、戦闘が起きることは無かった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
地に伏せて、息を吸い込む。
大気が鼻孔を通り抜け、鼻の奥を刺激する。
口内に流れてきた液体を味覚で味わうように、その大気を嗅覚で味わう。
「どうだ?」
「血の臭いも、キメラの臭いもしません」
和虎の問いかけに答えた瀞は、ゆっくりと起き上がり答えた。
県道から脇道へと入り、突き進むこと10分。左右には、田植えが終わったばかりの水田が広がっており、水面が朝日を反射している。耳を澄ませば、小鳥のさえずりや清流の水音が聞こえてきた。
瀞はその光景に、自分の故郷を重ねずにはいられなかった。本来ならば、心が安らぐ景色のはずだが、この先にキメラがいるという事実が瀞の心に暗雲を立ち込めさせていた。
「行きましょう」
瀞は振り返って、仲間たちに言った。07部隊の背後には、BATの機動隊の包囲網が広がっている。
獣人も、武器も、兵士も、どれもこの場にはそぐわない。無論、キメラのような化物も。
「よし。ヘルメットを被れ」
和虎の号令の元、07部隊の隊員たちは手にしていたヘルメットを被った。
ヘルメットを被ると聴覚と嗅覚を活かした索敵能力が落ちてしまう。七里ビル包囲の際と同じように被らず任務に当たりたかったが、一般市民と遭遇する危険性が高いため顔が隠さなければならない。
しかし、BATの獣人兵士用ヘルメットは側頭部にライフル弾程の大きさの穴が開いており、ヘルメットの前面が取り外せる仕組みになっている。索敵に配慮された設計となっていた。
「気を引き締めろ」
瀞を先頭に、和虎、風丸、空、賢士と続く。
五人の獣人の進軍が始まった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
同刻、BAT機動隊の死体回収班はその任務を終えて、調査班をビルに残して帰路についていた。
隊員たちと大量の死体を載せた3台の大型トラックは、各々が別のルートで基地へと向かっている。その内の1台は、朝日を浴びながら地方都市へと続く県道を走っていた。カモフラージュのため、荷台には大手引っ越しメーカーのシンボルであるパンダのイラストが描かれており、大量の死体が詰め込まれているとは誰も思わないだろう。
道は整備されており真新しいが、建物は少なく左右には点々と立つ民家と平地しかない。最も、それ故に交通量は少なく運転手にとっては好都合だった。トラックは速度を上げ、朝日に向かって一直線に突き進んでいった。
そんなトラックを、県道から離れた場所に立つ地区の集会場から、じっと見据える人物がいた。その人物は、門の脇に立っている電話ボックスへと入り、公衆電話の受話器を取って小銭を入れた。
大きな黒いコートを着込み、フードをしっかりと被っているため表情は見えない。梅雨入り前の早朝はまだ肌寒いが、それでも防寒着にしては大げさすぎる服装だ。
「私だ」
フードの奥から聞こえてきたのは、凛とした女性の声だった。
「ああ、撤収は終わったようだ。騒ぎが起きないということは、黒狐(くろこ)は見つからなかったようだ・・・・・・おそらく、隊員の誰かと入れ替わっているんだろう・・・・・・そうだな。むしろ、千載一遇のチャンスだ。07基地に堂々と入られる・・・・・・ばれたら終わりだが、あいつなら上手くやるだろう・・・・・・分かった、一旦戻る」
女性は通話を終えると、受話器を置いて電話ボックスを後にした。
(黒狐、頼むぞ)
心の中で仲間の武運を祈った女性は、都市と反対の方角へ駆け出した。一瞬、フードが風になびいて素顔が日光に晒された。
その顔は、人のものではない。灰色の体毛に覆われたそれは、獣人の頭部だった。鋭い目つきで迷いなく前を見る、凛々しい狼の顔だ。
狼獣人に女戦士は、全力で走り出す。その素顔を、人間を凌駕した走行を目撃した者は、一人もいなかった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
暖かい朝日に小川のせせらぎ、風で掠れ合う草木の音。
喧騒や車の音が一切しない田舎道を、瀞は臭いを嗅ぎつつ歩き続けた。急いで進みたいところだが、キメラがどこに潜んでいるか分からない状況下では、慎重に進むしかない。部隊を一つ壊滅させるほどの力があるかもしれないのだから、尚更警戒が必要だ。
加えて、自分の体には傷と疲労が積み重なっている。痛みは小さく、休憩も十分に取ったが、それでも本調子ではない。自分以外の仲間たちも、自分ほど傷を負っていないが、疲労は間違いなく溜まっているはずだ。
こんな状況で戦闘なんて。そう思わずにはいられないが、獣人である自分たちが戦わなければならない。
瀞は使命感を胸に秘め、前進を続けた。
「静かすぎないか?」
風丸が呟いた。
「いや、田舎はこういうもんだ。何も聞こえねえよ。時間が止まってるみてえだ」
瀞はそう言い返し、歩き続けた。
(いいところだな)
進軍を続けながら、瀞はそう思った。そして同時に、故郷に似ていると感じた。
瀞の実家は、大分県のとある田舎町にある。若者は次々と流出し高齢者が取り残され、過疎化した集落がいくつもある。企業を呼ぶことも出来ず、観光資源も乏しいため、移住者が流れ込むことも少ない。農業はやや盛んなものの、町を盛り立てられるほどの力は無かった。
それでも、瀞は故郷が好きだった。理屈はない。ただただ、地元の人間が、言い伝えられた伝承が、心を惹きつけるのだ。その故郷に似た雰囲気を持つこの集落に、瀞は好感を抱いた。
だからこそ、前回の任務以上に闘争心が燃え上がった。あたかも、自分の故郷に魔の手が伸びたかのように錯覚してしまう。
ここの人が死んでいたらどうしよう。キメラに殺されていたら・・・・・・。
先程の戦闘で、BATの調査員がリッパーにより殺害された光景が脳裏に浮かんだ。
あんなことが、ここで起きていいはずがない。こんな場所で、戦いなどあってはならない。
「おっ」
10メートル先に、橋が架かっている。幅は2メートル、長さは7メートルほどの、小さな橋だ。その下方から漂ってくる臭いを、瀞の嗅覚が捕らえた。
「隊長、あの橋の下から、ガソリンの臭いが」
瀞は後方の和虎にそう告げると、足早に橋へと向かった。
そして、橋の下をのぞき込んだ瞬間、瀞の身体を電流が駆け抜けた。
「あっ」
「マジかよ」
橋から15メートルほど下に、川が流れている。川幅は20メートルほどもあるが、水深は30センチ程度と浅い。
その川に、1台の軽トラックが転がっていた。横倒しの状態になっており、ガラスは蜘蛛の巣のような罅が入っているため車内は確認できなかった。
「キメラに突き落とされたのかな?それとも、事故?」
空は、川沿いの道を見ながら言う。川沿いの道路にはガードレールが無く、運転を誤って落ちた可能性もある。事実、軽トラックは川の端の方にある。
「あそこから降りて調べるぞ。生きている可能性もある。瀞と風丸は俺と降りるぞ。賢士と空は階段の上で周辺を警戒していろ」
橋を渡り、川沿いを少し歩いたところに、川へ降りるための階段がある。和虎は、そこへ歩き出した。
「飛び降りた方が速いですよ」
瀞は橋の柵を超えようと、足をかけた。
(ちくしょう!!何でこんな!!くそっ!!)
キメラに突き落とされる軽トラック。
頭の中では、既にその可能性が確実なものとなり、その映像までも浮かんでいた。
故郷に似た場所に、獣の牙が届いてしまった。
その事実が瀞の心に焦りを生じさせた。
心が急く。
運転手が生きているなら助けたい。
手遅れならば、軽トラックを調べてキメラの情報を少しでも・・・・・・。
柵に足を掛けた、その瞬間だった。
長い腕が橋の下から瀞へと伸びてきた。
大樹から伸びる枝のように細長いが、先端には人のような5本指の掌があった。
その手は、瀞の右足首を狙っていた。
「キィィィィィ!!」
しかし、その腕は標的には届かなかった。
和虎が瀞の肩を掴み、引っ張って柵から引き離したため空振りとなったのだ。
そして、和虎は部下を守るだけでなく、虎姫を右手1本で薙ぎ払い、その手を斬り落としていた。
不快な金切り音が周囲に轟く。
すると、橋の下から湧き出てきたキメラが二体、柵を超えて橋の上に降り立った。それぞれが起点と終点に立ち、隊員達をはさみ込む形で。
(バール!!)
瀞はその容姿を資料で見たことがあった。
それは、牛を超える巨大さを誇る蜘蛛だった。八つの脚が生えた頭胸部と、一回り大きい腹部。びっしりと生えた剛毛は深緑色だが、足の先端と頭部周辺は赤黒い。禍々しい姿だが、正面についた二つの主眼は、翡翠色に美しく煌めき驚く隊員の顔を映していた。
主眼の下、通常ならば触肢と呼ばれる触覚のようなものが付いている部位には、人間の腕がついていた。口から垂れさがっているそれは、青白く異様に長いが、紛れもなく人の腕の形状である。さらに、八つの脚の先端にも、人の手が付いてある。指は太く長く、猿やゴリラのものに近い。
バールと呼ばれるキメラは07部隊を橋の上で挟み込むと、8本の脚を折り曲げ、姿勢を低くした。蜘蛛の身体だが、さながら短距離選手のクラウチングスタートのように
「躱せ!!」
和虎が叫ぶと同時に、五人は橋から飛び降りた。
直後、2体のバールは後方の6本脚でアスファルトを蹴り、2本の前足を広げて07部隊へと跳びかかった。
バールが持つ8本の脚には瞬発力に優れた良質な筋肉が詰まっている。体重も外見の割には軽いため、そのスピードは肉食獣に匹敵する。加えて、一瞬で最高速度に達するほどの加速力も備えていた。
徘徊性の蜘蛛のような、一直線の突進攻撃。瀞と空と風丸は資料で、和虎と賢士は経験でそれを把握していた。
だからこそ、バールが攻撃態勢を取った瞬間に、全員が橋から飛び降りた
刹那、銃声が響く。
ほぼ同時に、橋の上でバール同士がぶつかり合った。
まるで闘牛同士が衝突したかのような音が響いた。
バールの突進から逃れた瀞だったが、安堵は出来なかった。
橋の下にはバールが3体、本物の蜘蛛のように張り付いていたのだ。うち1体は、和虎によって前脚が1本斬り落とされている。
三体は、それぞれが跳躍の姿勢を取る。
直後に銃声が響き、1体のバールが落下した。空が頭部を狙ってライフルを発砲したのだ。
少し遅れて、前足を1本失ったバールが瀞へと跳びかかってきた。恨みを晴らすとでも言うかのように。
そして、もう片方は和虎へと跳びかかった。
バールの脚と触肢の先端についている掌にはスリットがあり、そこには猫の爪のような刃が収納されている。脚の刃は無毒だが、触肢の刃からは強力な神経毒を出すことが出来る。
バールは8本の脚を使って獲物を絡め取り、触肢の刃で毒を注入し、足の刃で切り刻んで捕食する。これがバールの狩りだ。
空中にいる瀞はそれを防御も回避もできない、格好の的だった。
バールの跳躍と同時に、瀞は自身が陥るであろう事態に戦慄した。
1秒も経たないうちに、自分はバールに狩られる。
「キィ!!」
「ぐっ!!」
バールの身体がぶつかる。
しかし、8本の腕も2本の触肢も、瀞の体に絡みつくことは無かった。
落雷のように天から落ちてきた銃弾が、脳を射貫いたのだ。
流石のキメラも、脳を射貫かれてしまえば生きてはいられない。
それでも流石はキメラと言うべきか、バールの腕は微かに動いて瀞の体を抱きかかえる。
しかし、掌から刃が出ることは無かった。
巨大蜘蛛から抱き着かれた瀞は鳥肌を立てつつ、腕を振りほどいてバールの体を蹴り、川に着地した。
「和虎隊長!」
自身の無事を喜ぶより先に、瀞は和虎の方を見た。和虎にもバールが跳びかかっていく様子を視界の端で見たからだ。
しかし、その心配は杞憂だった。
和虎は跳びかかってきたバール目がけて愛刀・虎姫を投げつけたのだ。
長い刃は深々と頭部に突き刺さり、バールを即死させた。
着地に成功した和虎は、拳銃を撃ち込んでバールの死を確認し、愛刀を抜こうとしている。
「空!」
和虎の無事を確認した瀞は、空の様子を見る。
空は、自分が撃ち落としたバールに近づきつつ、止めの銃弾を撃ち込んでいた。
バールの外殻は硬く、ライフル程の火力では5,6発を集中砲火しなければ破壊は出来ない。
もっとも、外殻より脆い眼を狙って内部の脳を射貫けば、1発で仕留められるのだが。賢士が先ほど、自分を助けてくれた時のように。
「副隊長!橋のやつらは!?」
瀞は翼を広げてホバリングしている賢士に呼びかけつつ、橋の上を睨んだ。
だが、橋の上にいるはずの2体がこちらにやってくる気配はない。
「もう2体とも死んでいる。車の確認をしろ」
賢士は橋の上に着地し、周辺の警戒を始めた。
「え?」
「賢士と風丸が飛び降りるときに仕留めたんだ」
瀞の疑問を解消すべく、和虎が言った。
「い、いつ?」
「飛び降りる直前だ」
「どうやって?」
「いいから来い!風丸は周辺警戒!」
「は、はい!」
瀞の付近に着地していた風丸は、川下の方に体を向けた。川上は、既にバールに止めを刺した空が銃を向けている。橋の上では、賢士が鷹の目を光らせていた。
和虎は軽トラックへと歩いてゆく。瀞はその後に続いた。
「どうやった?」
風丸の背後を通る際に、そっとその背に聞いてみた。
「ナイフ投げたら、目の中に入ってくれた」
瀞はそこでようやく、風丸のナイフが右手1本になっていることに気付いた。
橋から飛び降りる直前、右手のナイフを投げつけたのだろう。
風丸の筋力は和虎に遠く及ばないが、命中箇所が眼で、しかもバールの突進の勢いも加われば、容易く刃は脳に達する。
賢士も同様に、89式小銃にて目を撃ち抜いたのだろう。バール同士の衝突音と同時に響いた銃声は、賢士のものだったのだ。
軽トラに到着した和虎は、背中の鞘を取り、軽トラックのフロントガラスを慎重に叩き始めた。罅だらけだったガラスは簡単に砕けた。
破片が飛び散らないよう注意しながらの作業だったが、その心配は不要だった。トラックの中には、誰もいなかった。
「誰もいねえ」
「気を引くための罠だろう。現にさっきのバール共は、連携が取れていた」
隊員達は、被害者がいないことを安堵すると同時に、バールの知能に戦慄した。こんな罠を用意してくるとは思わなかった。
だが瀞は、同時に別の感情を抱いていた。
それは、屈辱だった。
今の戦闘では、自分だけ何もできなかった。他の隊員たちは、バールを見事に仕留めたというのに。
しかも、逸る気持ちを抑えきれずバールの策にまんまとはまったのは自分だけだった。和虎がいなければ、バールの手に捕らえられて喉を刃でかき切られていただろう。
無様の一言に尽きる。
「瀞」
歯噛みしながら和虎の背を見ていると、不意に和虎が振り返りヘルメットの前面を取り外して瀞の目を真っすぐ見据えてきた。
「は、はい」
叱責をくらうと思い、瀞は身を硬くした。だが。
「気持ちは分からんでもないが、焦るなよ」
雷を警戒した瀞に投げかけられた声は、思いのほか優しかった。しかし、それでもよく通り、重量感のある声だ。
更に和虎は、瀞の肩に手を置いて言葉を続ける。
「もう一度気を引き締めなおせ。いいな」
「は、はい!」
瀞は耳と尾を立てて力強く返事をした。焦りや屈辱感が完全に消えたわけではないが、乱れは収まった。
(やっぱすげえな、和虎隊長)
自分の内面を見透かして、たった二言の助言で士気を高めてくれる和虎が、瀞の目には理想の隊長像として映った。
タン!
助言の余韻に浸っていると、橋の上から銃声が降ってきた。
瀞は和虎に言われた通り気を引き締めて、橋の上へ跳び上がろうと両脚に力を込める。
最も早く橋へ跳び上がったのは、カモシカの脚力を持つ空だ。
「あっ」
空は、豊和М1500を構えた賢士の視線の先を見て思わず声を上げた。
500メートルほど奥、民家のすぐ近く。
そこには、賢士に頭部を射貫かれて即死したバールが1体。
すぐ隣には、中学生くらいの女子と、その子より少し年下の男子が、抱き合ってへたり込んでいた。