BAT07基地、地下7階Iブロックにて。
「ぐっ・・・・・・」
とある部屋の中で、瀞は歯を食いしばり、右手の筋肉をフル稼働して呻き声をあげていた。
「ぬ!!」
瀞がいる場所は、崖と呼んでも差し支えないほどの急坂の中腹である。瀞はわずかな突起に右手の指先をかけ、落下から免れている。
「くぅぅ」
やがて、右足、左手、左足を、微かな突起や窪み乗せた。
(危ね・・・・・・もう少しで、右腕がつるところだ)
「大丈夫か、瀞」
上から、志龍の声が降ってきた。
「ああ、なんとかな」
自分よりも先を進む志龍に無事を伝え、一息ついた瀞だったが。
「ああああああ!!」
さらに上から、壮年男性の叫び声が。
「上から来るぞ!気を付けろ!」
再び志龍の声が。今度は、危機を伝えるために。
瀞が上を見上げると、粘液まみれの巨大な岩が急坂を滑り落ちてくる。高速で、こちらに向かって。
「こっちだ、瀞!」
不意に、右の下から和虎の声が聞こえてきた。瀞は両脚に力を籠め、僅かな突起を蹴り右へ跳ぶ。
瀞がいた場所を巨岩――――――もとい、陸が滑り落ちていった。
同様に瀞も急坂を滑り降りたが、1メートルほど落ちた地点で止まる。
「すみません」
「気にするな。ここは比較的、突起が大きい」
瀞は、同じく斜面に張り付いている和虎の膝の上に着地していた。
「どうっ!!」
坂の下に落下した陸の哀れな叫びが声が聞こえてきた。首を捻じって見下ろすと、仰向けに倒れた陸と、彼に心配そうに駆け寄る空の姿があった。
「みんなー。早くしてよ。おわらないよー」
急坂の天辺からは、京香の呑気な声が聞こえてきた。
「早くしてって言われてもな・・・・・・マジで、なんだこの急坂はぁ」
「とにかく、上がるしかないだろう」
項垂れる瀞を、和虎は感情が籠っていない声で励ました。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
03,07,08、三部隊による紅白戦は、瀞が意識を失った後、すぐに決着がついた。
氣雷と理理から逃げる途中、空は賢士に狙撃され脱落。その後、賢士は和虎と行動していた陸も狙撃で脱落させた。
和虎は賢士の狙撃から逃れたものの、直後に氣雷と理理に遭遇した。和虎と氣雷の力量は互角だが、賢士の狙撃を警戒しながらでは全力を発揮できるはずもなく、健闘むなしく和虎も脱落した。
京香は零と互角の勝負を繰り広げていたが、彼女一人で現状を打破できるはずもなく。紅白戦は白チームの勝利という形で終わった。
そして、試合終了後。
敗北した紅チームのメンバーは、Iブロックのトレーニングルームに案内された。
そこは獣人になったばかりの兵士のために作られた、多数のアスレチックが設営されている部屋だ。ここのアスレチックは人間では攻略できないほどの難易度で設計されている。ここを攻略する過程で、獣人の身体能力の高さを把握させ、それを活かす技能を見に着けさせるのだ。
瀞たちは、高さ5メートルもある急斜面の攻略を命じられた。ほとんど崖である斜面には僅かな突起や窪みしかなく、駆け上がるのは難しい。
加えて、斜面にはローションが塗りたくられており、とても滑りやすくなっている。現に、瀞たちは何度も手や足を滑らせ、落下する羽目になっている。
何故こんなことをやらされているのか。
それは、紅白戦に負けたペナルティ。
つまり、罰ゲームである。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「なんで、こんな、こと・・・・・・」
スパッツ一丁の姿で、瀞は文句を言いながら斜面を登る。滑らないよう、慎重に。全身は既にローションまみれだ。粘液を滴らせながら、パンツ姿で獣人が斜面を上る姿は、非常に滑稽である。
「上からの命令だ」
和虎が下から、低い声で言った。心なしか、怒っているように聞こえる。
「だからって、こんな馬鹿みてえなことを、特殊部隊の隊員が、しますかね?」
「普通はしないな」
「ローションまみれになって、坂を上がるとか。今キメラでたらどうすんだ」
「大急ぎで着替えて出動だ」
「マジでくそ。バラエティ番組か」
瀞が怒るのも無理はない。
どんな国の警察や軍隊でも、こんなことはしないだろう。
しかも、部屋をしっかりと施錠し、クリアしたら解放するという徹底ぶりである。
「いいから黙って登れ」
「はい」
和虎の言葉に詰まった怒気が高まった。
BATに対して、そして、愚痴を言う自分に対してだと判断した瀞は、もう何も言わなくなった。
「しゅうまーつのおおどーりおー、くろねーこがあるくー」
苦も無く斜面を駆け上がった京香は、一人呑気に頂上でスマホをいじりながら歌を歌っている。スマホを尻尾に巻き付けた状態で、小さな突起を利用し壁を駆け上がる姿は、本物の猫のように軽快だった。
「もう、少し、だ・・・・・・」
気付いたら、志龍も頂上まであと少しだ。
自分も負けていられないと、瀞も上を目指す。
すると。
「頑張って、ドンガバチョ」
京香が志龍に声援を送った。途端に、志龍の肉体が震えだす。
「ちょ、京香さん!笑わせんな!」
「いや、ドンガバチョって言っただけじゃん」
「こういう状況だと、普段笑わないことでもウケるんだよ!くあっ!」
志龍は必死に突起にしがみつき、笑って力が抜けないようこらえている。京香は、その様子を心の底から楽しそうに眺めている。
「ドンガバチョって、なんでしたっけ」
「ひょっこりひょうたん島の登場人物じゃなかったか」
「ああ、なんか、いたような。どんなキャラでしたっけ」
「忘れたな。ストーリーも覚えてない」
「テーマソングは知ってるんですけどね。てか、そんな笑うことか」
冷静に会話しつつ上る瀞と和虎は、徐々に志龍に近づいていく。なぜ志龍がこんなことに笑っているのか理解できないまま。
そして、京香の口撃は続いた。
「アニメの名言シリーズ。なぁ、せっかく海に来たんだから、海に行こうぜ」
「ちょ!まじでやめて!」
「海に来たから海に行こうぜって、もう、海にきてるじゃん」
「矛盾の典型的な例文だな」
「泳ごうぜって言いたかったんでしょうね」
志龍の体が、少しだけ下がった。
「最近の人間界は荒んでいます。死んだ魚のような目をしたウジ虫のような屑どもが大勢います」
「や、やめ・・・・・・」
「何の名言ですか」
「ギャグ漫画日和じゃないか。魔法の国の女王の台詞だったような気がする」
「辛辣すぎでしょ」
志龍の体が、さらに下がる。
「俺のチョキは石をも砕く」
「んがっ!」
「じゃんけんの、いちゃもんですかね」
「浦安鉄筋家族だな」
「和虎隊長、意外と詳しいですね」
志龍の身体から、力が抜けた。
そして。
「うわああああ!瀞、助けて!」
志龍の身体が滑り落ち始めた。志龍は助けを求めるように、瀞に腕を伸ばす。
「志龍、頑張れ、諦めるな」
瀞は志龍に声援を送りつつ、ぶつからないよう体をねじる。
しかし。
「助けろや!」
志龍は右手を限界まで伸ばし、瀞の右足首を掴んだ。
「うお!」
そして、瀞の身体も滑り落ちた。
「むっ」
和虎も体をねじって二人を避ける。瀞は腕を伸ばすも、届きそうにない。
しかし。
「とう!」
この急坂には、滑り台のように側面に低い壁がついている。壁際を上っていた志龍はそれを蹴った。瀞と志龍の身体は斜面に沿って横へ移動しする。
「隊長!」
志龍によって加速した瀞は、和虎の腰に腕を伸ばす。和虎は腰を捻じるも、瀞が精いっぱい伸ばした右手の指先が、和虎のスパッツに引っかかった。しかし、スパッツ程度では二人分の体重を支えられるはずもなく。
ズルッ
和虎のスパッツが脱げた。正確には、瀞が脱がせてしまった。
『うわあああああ!!!!』
瀞と志龍は、ローションを纏い揃って落下する。
そして地面に落下する直前。
「ふっ!」
志龍は瀞の肉体を下にした。
「ぐえっ!」
結果、志龍は瀞をクッション代わりに着地に成功する。一方の瀞は、志龍の全体重を腹で受け止めることになった。
「ふう。危ねえ危ねえ」
「危ねえ、じゃ、ねえ!!」
激痛を超える怒りを原動力にし、瀞は志龍を突き飛ばした。1メートルほど跳んだ志龍は着地しようとしたが、ローションで滑り転倒した。
「ひでえ、瀞、友達になんてことを」
「こっちのセリフだ!巻き添えにして下敷きにして!」
瀞が吠えた次の瞬間。
「どけ!」
「へ?」
真上から和虎の声が。見上げると、全裸の和虎が落ちてくる。瀞にスパッツを脱がされた際にバランスを崩し、何とか粘って斜面に張り付いていたが、結局耐えきれず落ちてしまったのだ。
瀞は和虎から逃れようとするも、ローションで滑りうつ伏せにこけてしまう。
そして、瀞の背中に和虎の尻が直撃した。
「おぅっふ!!」
あまりの衝撃に、瀞は肺の空気が一気に押し出され情けない声が出る。
だが、それ以上の絶叫が皆の鼓膜を震わせた。
「いやあああっっ!!!!!」
和虎の股間を見てしまった空が、空気を切り裂くような金切り声を上げたのだ。そして、瀞の背中の上で尻もちをついている和虎の頭部に向かって、ミドルキックを打ち込んだ。
和虎は防御するも、吹き飛び斜面に激突した。
敬愛する隊長を蹴り飛ばした空は、汚れたモノから逃れるように、床を強く蹴り一足飛びで頂上に到達した。
「あ、ずりいぞ、空。ちゃんと斜面登れよ」
下から文句を言う志龍だが。
「う!!!おぇぇ・・・・・・うぼえぇぇ・・・・・・」
「はーいはい、落ち着て。出すものだしたら、すっきりするから」
空は吐きそうになっており、返事が出来る状態ではなかった。京香は菩薩の如き優しい笑みを浮かべ、心に深い傷を負った少女の背中を優しくなでていた。
「え、そんなにダメージ受けるか、普通?」
「きっと最後に見たのが、小さいころお父さんとお風呂に入った時なんだよ」
「まぁ、空はウブっぽいしな。しかも、見せつけられたのが和虎隊長のだからな」
「オレの愛銃並」
「陸さんも、でけえのか」
「いや、たとえだよ。オレが愛用しているリボルバーのM686並って意味で」
「だははは!マグナムってことか!でも、和虎隊長なら銃じゃなくて刀に例えた方がいいだろ!斬馬刀とか!」
「しっかし、僕も気を付けないとな。空から蹴られたくないし」
「陸さんは収納式だし、大丈夫だろ」
くだらない話で志龍と陸が盛り上がっていると。
「だははじゃねえよ、くそ猿が・・・・・・お前のせいで、和虎隊長の下敷きにもなったじゃねえか!」
「いや、それは関係ねえだろ」
「あるだろうが!そもそもお前が俺を落とさなかったら!」
「おい」
志龍につめよる瀞の肩を、大きな虎の手が掴んだ。
「いっ!?」
瀞が振り返ると、今にも唸り声をあげそうな和虎の顔がそこにあった。かつて、ドキュメンタリー番組で見た、怒るシベリア虎の顔のような迫力だ。
「そんなことより、俺に言うことがあるんじゃないのか」
「いやでも、それも、全ては、志龍のせいで」
「人のせいにするな!俺のパンツを下ろしたのはお前だ!だいたい、お前も俺を巻き添えにしようとしただろうが!」
「す、すいません!」
優しく、そして厳しい和虎の叱責は何度も受けたことがある。しかし、こんな顔で怒る和虎を見たのは初めてだ。訓練中の叱責とは雰囲気が違う。ただ腹を立てているだけだ。
すっかり委縮した瀞は耳を下げて尻尾を股に挟み、土下座して許しを乞うしかなかった。
「か、和虎隊長、ごめんなさい!つい・・・・・・」
頂上から和虎を見下ろし、謝罪を口にした空だったが。
「いやっ!!隊長!!早く履いてください!!」
未だに全裸の和虎を見て、顔を両手で覆った。
「遠くて見えねえだろ」
「遠くても、和虎君のリボルバーは存在感あるから」
「いやだから、斬馬刀だって」
「どっちでもいいから履いてくださいよ!!」
「もう履いたわぁ!!」
「あ、はい・・・・・・和虎隊長、本当に、ごめんなさい」
空は頂上から顔を出し、改めて謝罪した。
「いや、気にするな。俺も見せたのは悪かった」
「和虎隊長は悪くないですよ。諸悪の根源は瀞です」
「志龍、貴様!」
和虎は犬猿を無視し、呆れた目つきで空を見上げた。
「しかしだ。蹴り飛ばすことは無いだろう。お前の蹴りは、瀞や志龍より効くからな」
「だ、だって、なんていうか、その、小学生以来で・・・・・・しかも、なんか、私の記憶と形が違ってて・・・・・・それに、なんか、お、お、大きいっていうか・・・・・・」
思い出したくもないが、その強烈さゆえに記憶にしっかりと焼き付いてしまった光景を思い浮かべ、空は震えながら言い訳をした。
「和虎君の、剥けてたからね。氣雷と違って。しかもあの大きさは、初心者にはきついかな」
「や、やっぱり、大きいんですか、あれ?」
「うん。かなりデカい方だよ。他のはもっと小さいよ」
「そう、ですよね。皆にあんなのがついていたら、その、怖いですから」
空はぶつぶつと、自分に言い聞かせるようにつぶやいている。
和虎はそんな部下を、何とも言えない表情で見上げていた。
「登るか」
和虎は斜面の突起に手をかけた。瀞たちも、それに続く。
「ま、特殊な訓練と思うことにするか」
「思えねえよ。筋トレした方が100億倍マシだ」
瀞のつぶやきに、志龍は冷たく返した。
「ったく、こうしている間にも、他の部隊の獣人たちは訓練してんだろうに」
「そうだな」
この茶番に対する不満を再び口にし出した犬猿へ、後から続く陸が励ますように言った。
「オレたちみたいに、遊んでいる獣人だって、きっといるよ。獣人だって、人だしね。息抜きは必要だよ」
「ま、そうですね」
「はぁ」
二人は口を止め、和虎を追って黙々と登り始めた。
くだらない罰ゲームという形ではなく、もっと心休まる息抜きが欲しいと思いながら。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
同刻、とある海上にて。
斜陽を浴びながら、一羽の鳥が優雅に飛び回っていた。
海鳥ではない。骨格は人間、背中に翼を持ち、衣服を着て飛ぶその鳥は、燕の獣人だった。
翼に生えた羽毛は、空や海と同じ群青色。最も。今は夕日により全てが橙色に染まっている。
頭部には、ヘッドフォンが固定されている。そこから流れてくる音楽を聴きながら、燕は飛行を楽しんでいた。
パイプオルガンで奏でられる、神々しく煌びやかな調べにより気持ちを高揚させた燕は、夕焼け空に向かって上昇すると、一転して海上に向かって急降下する。
重力も相まってかなりの速度が出ているため、数秒も経たないうちに漣立つ海が眼前に迫る。
塩辛いはずだが、今は甘そうに見える海へ。
このまま衝突するかと思いきや、燕は直前に軌道を90度変え、海面すれすれの位置を飛行した。
やがて燕はほとんど減速せず左方へ急旋回し、再び夕焼け空へ向かって突き進んだ。
速度もさることながら、驚異的な旋回能力だった。
やがて音楽は曲調を変えた。派手さがそぎ落とされ、素朴で和やかで、どことなく懐かしさを感じさせてくれる、チェンバロの音色が聞こえてくる。
心を落ち着かせる曲を聴いた燕は速度を落とし、右に旋回しながらゆっくりと下降していった。
再び海面にぶつかりそうになった時、再び曲調が変わった。温もりが消えて悲壮感漂う曲がピアノで奏でられる。悲痛だが、しかし美しい曲だった。
燕は緩やかに上昇し、高度と速度を一定に保ったまま跳びつつ曲に聞き入っていた。心身の力を抜いて、音楽と大気と一つになり、それらの流れに身を任せて飛行する。
この時間が、燕はとても好きだ。
縦横無尽に、自由に、大空を駆け回るこの時が。
「ふう」
やがて、夕日は沈み翼に疲労が溜まってきた。
燕は小さくため息を吐くと左に旋回し、残光の下、帰路についた。
海原に居を構える、緑生い茂る島に向かって。
「はぁ」
燕はため息を漏らした。
島に帰るこの一時、いつも心に生じる憂鬱な感覚味わいながら。
窮屈な気分になる。
“不自由”であるが故に。
どれだけ自由に大空を飛び回ろうとも。
島から伸びた鎖は足に絡みついたまま。
鳥籠に戻らざるを得ない自分は。
いつまでたっても“不自由”だ。
生き物である以上、必ず何かに縛られている。
時間に。重力に。気候に。肉体に。
しかし、それらによる拘束は“不自由”とは言えないだろう。
“不自由”とは、他者から制限を受けることで生じるものだ。
人から抑圧されている者にこそ相応しい言葉だ。
燕が海面を見下ろすと、海は既に黒く染まっていた。
まるで憂鬱な心を具現化しているかのように。
しかし、燕の心は黒一色で染まっているわけではない。
島へ帰ることに憂鬱さを感じながらも、同時に幸福感も抱いていた。
愛しい人に出会えるから。
同刻、BAT07基地地下7階居住エリア、居酒屋『水郷』、大広間にて。
畳が敷かれた和風の大部屋で、並べられたテーブルの上には料理やソフトドリンクが無造作に並べられている。
「あ、いや、その・・・・・・」
本来は、飲み会などが開催され楽し気な喧噪が充満するはずの一室。
しかし今、その場の空気は凍り付いていた。
もっとも、場を凍り付かせている本人の心は、激しく燃え上がっているのだが。
激情の炎によって。
「お前・・・・・・」
その男、獅子山氣雷はゆっくりと立ち上がった。
憤怒を張り付けたその顔には、べっとりとエビチリソースが付着している。
氣雷が見つめる視線の先には、飴色の犬、瀞が尻もちを付いていた。
耳を寝かせ、ガタガタと震えるその様は、正に怯える犬そのものだった。
事の発端は、数分前に遡る。
くだらない罰ゲームを終え、体中のローションを苦労しつつ落とした瀞たちは、紅白戦の勝利チームの飲み会に参加した。最も、緊急出動が考えられるため、酒は全てノンアルコールだが。
合同訓練最終日の打ち上げということもあり、隊員たちは大いに盛り上がった。
「えぇ、純心も同じことされたのか!?」
「ああ。志龍のやつ、俺が出そうとした訓練室使用許可書に落書きしやがったんだ。『うんこしました、くさかったです』ってな。うんことハエの絵まで描いてな!」
「しかもあいつ、開き直ったからな。確認しねえお前らが悪いって」
「しねえよ、確認なんて!だいたい、なんだよ、あの落書きは!そりゃ、うんこはくせえよ!」
「受付の人から、すっげえ笑われたしな!
瀞と純心は串焼きをつまみに、ノンアルコールビールを酌み交わしつつ、志龍にされたいたずらの数々を報告し合っていた。
「あいつ、訓練では馬鹿みてえにくそ真面目になるのに、悪ふざけははんぱねえからな」
「ある意味、京香さんよりタチ悪いからな」
「いや、京香さんもかなりやばいと思うけどな。さっきの罰ゲームの時だって、俺が頑張ってる時に、顔面にウーロン茶ぶっかけてきやがった。ウーロン茶ぬるぬる~とか、ふざけたこと言いながら」
「まぁ、気持ちはわかるが、京香さんには仕返ししようとしても、絶対に躱されるからな。でも志龍なら、いけるぜ」
純心は、風丸と陸と一緒にノンアルビールを楽しく飲み合っている志龍に目を向け、にやりと笑った。
志龍はこちらを向いていない。チャンスだ。
「そうだな。ちょっとここらへんで、あいつに教えてやらねえと。お前はやりすぎだってことに」
瀞が頷くと、純心は近くのテーブルにあるプラスチック製の皿に手を伸ばした。料理は乗っていない。
「志龍のカンの良さもかなりのもんだ。だが、二段構えな決まるはずだ」
「おう」
やがて、風丸がトイレのため立ち上がった。
同時に、純心が仕掛けた。
「いくぜ・・・・・・気円斬!」
純心は立ち上がると、その皿を志龍めがけて放り投げた。
高速回転しつつ、皿は志龍へ飛来する。
同時に、瀞は畳を蹴った。
直後、殺気に気付いた志龍は振り返り、皿に気付いた。
「っぶね!」
志龍はその場から一瞬で消えた。
「ぶっ!」
皿は飛来し、鰐特有の大きな口を開けてビールを飲んでいた陸の分厚い胸に直撃した。
紙一重で皿を交わした志龍。その背後に、瀞は降り立った。
「くらえ!龍巻閃!」
瀞の裏拳が、志龍の頭部に打ち込まれた。
が、志龍はしゃがんでそれを躱し、振り返ると。
「甘い!牙突零式!」
瀞の脇腹に左ストレートを打ち込んだ。
「うごっ!」
呻き声をあげ、瀞はその場に倒れこんだ。
「ふっ。馬鹿が。殺気で丸わかりだぜ。しかも龍巻閃は、返し技として使って真価を発揮する技だ。それを先打ちしてやられるなんて、ダメダメだな」
親友を見下ろし高説を垂れる志龍を、瀞は悔しさと腹痛に耐えつつ見上げるしかなかった。
「志龍、お前、力、強すぎ・・・・・・こういう時は手ぇ抜けよ」
「戯れなれば、当て身にて」
「戯れってレベルじゃねえだろ」
瀞は何とか立ち上がり、志龍と向かい合った。
「こうなりゃ、こっちも手加減無しだ。純心と一緒に、こてんぱんにしてやる。なぁ、純心!」
瀞は背後にいる相棒に同意を求めたが。
「シャッ、ヒュッ、カシャッ、ズギュゥン、ファイナルベント」
「へ?」
「もうやってらんないぜ!」
突進という返事が、瀞の背中に叩き込まれた。
「ぐ!」
「ぶ!」
瀞は吹き飛び、むせ返っていた陸の胸に衝突した。
「ったく、マジやってらんねえ。あのタイミングで空振りなんて、雑魚すぎだろ、瀞。もうお前なんかと組むのはやめだ」
純心は、陸の胸に抱かれた瀞に向かって、冷酷な言葉を吐き捨てた。
「大丈夫?」
「ええ、なんとか」
陸に優しい言葉をかけられた瀞は、素っ気なく返事をして起き上がり、下卑た笑みを浮かべる猿と犀のコンビを睨みつけた。
「最悪だぜ、お前な。志龍はやりすぎるし、純心は裏切りやがるし」
「戯れなれば、当て身にて」
「裏切るんじゃない。見限るんだ」
「こっの!!」
瀞が全力で二人に挑もうとした、その瞬間。
「瀞」
「あ!?」
いつの間にか背後に立っていた風丸に呼ばれ、瀞が振り返ると。
「テイクディス」
顔に、霧吹きで何かの液体をかけられた。
「むおっ」
香水かと思い、息を吸うと。
「うっ」
鼻に、脳に、凄まじい衝撃が走った。
「くさぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
衝撃の正体は、液体の臭さだ。あまりにも臭すぎるため、それは激痛と化した瀞の鼻のみならず、全身を痺れさせた。
「なんだ、それ」
「志龍に頼まれて持って来た、くさやのエキス。お店の人に作ってもらった」
「さんきゅう、風丸。どうだ、すごい威力だろ」
志龍たちの会話も、瀞の耳には入ってこない。犬獣人の優れた嗅覚によって、濃度の高いくさやの香りを嗅いことは、自殺行為と言っても過言ではないのだ。
(なんなんだ、この比類なき臭さは。ぐえぇ・・・・・・それにしても臭い!くさいくさいくさいくさいくさい・・・・・・)
あれ、俺、どうしたんだろう。
どこだ、ここ。
眩しくて、暖かい。
あ、丈一さんがいる。めっちゃ笑顔。
どうしてここに?
あ、和虎隊長も。
なんでパンツ一丁で、鬼のお面かぶって、金棒持ってるんですか。
空もいるな。
あ、志龍にむかってかかと落としやろうとしてるな。
いいぞ、やってやれ。
風丸も・・・て、なんか足が虫みたいになってるぞ、怖。
あ、純心のやつ、なんで固まって・・・あ、体が細切れになった。まぁいいや。
やったのは、零さんか。ナイフが赤いし。ナイス。
理理もいるけど、ちょ、数多っ。10人いるし。
陸さんは、は、胸が大きくなってるし。もう、空に分けてやれよ・・・・・・。
「はっ!」
10秒ほど気を失っていた瀞の意識は、ようやく覚醒した。
「あ、起きた」
「よかった、死んだかと思ったぜ」
「大丈夫か?」
志龍たちは、一応、心配そうな顔をしている。
しかし、今更優しい態度を取られても、瀞の怒りは静まらない。
「大丈夫・・・・・・大丈夫かって!?大丈夫なわけあるか!!こちとら臭すぎて、微妙な走馬灯見る始末だわ!!」
「臭いとは思っていたけど、ここまでとは」
「くさや、恐るべき」
「凶器だな。今回の経験を基に次回はもう少し気を付けてやらねえと」
次回、ということは、またこの恐るべき攻撃を行うつもりなのだろうか。
瀞の怒りは頂点に達した。
「お前ら・・・・・・もう許さねえ!!!」
瀞は後退し、三人から大きく距離を取った。
そして。
「くらえ!!絶・天狼抜刀牙!!」
瀞は畳を蹴り、勢いよくジャンプした。
その勢いを利用し、空中で前廻りを行う。
そして、獣人の身体能力を最大限に発揮し、超高速で連続前廻りを行いつつ猛スピードで志龍たちへ向かって突っ込んでいった。
まるで、空中を走るタイヤのようだ。
「あぶねえ!!」
志龍たちは、とっさにしゃがんで躱した。
瀞は回転しつつ壁に向かって飛んでいく。
「ふっ!!」
激突かと思われたが、瀞は壁を蹴り、再び志龍たちへ向かっていった。
回転速度は上昇しており、触れればただでは済まない。
「やべえ、純心!」
「おう!」
純心は、砲丸投げの体勢を取る。
そして、ジャンプした志龍は純心の右手の上に着地した。
「いくぞ!!」
「必殺!!」
『超級・覇王・電影弾!!』
純心はプロ野球選手の遠投のように、大きなモーションで志龍の身体を瀞に向かって投げ飛ばした。
放たれた志龍は空中で仰向けの体勢を取ったが、すぐに回転を始めた。
瀞の縦回転に対し、横回転の動きで。
横向きの竜巻と化した志龍は、瀞目がけて矢のように宙を走る。
そして。
ドガッ!!!!
空中で、高速回転する犬と猿が衝突した。
「うわあああ!!!」
「ぐわあああ!!!」
その衝撃により、二人は轟音と絶叫を響かせながら吹き飛んだ。
(こ、これは!?)
(高速回転し合う独楽同士がぶつかった時、回転力が弱い方が吹き飛んでしまう。二人の回転力は、互角だったんだ!)
風丸と純心は瞬時に戦いの結果を理解し、吹き飛んできた志龍の身体を受け止めた。
一方、瀞は別方向に吹き飛んでいき。
「うごっ!!」
硬い肉の山に衝突し、止まった。
「ぐ・・・・・・いて・・・・・・うげぇ・・・・・・」
全身強打の痛みと全身運動の疲労だけでなく、高速回転による気持ち悪さに襲われ、瀞はその場にうずくまった。
(はぁ、死ぬかと思った・・・・・・獣人の運動神経で、本気でじゃれあったらこうなるのか)
瀞はなんとか起き上がり、志龍たちの方を見た。
(あれ?)
着地に失敗した自分をあざ笑ってくるのかと思っていたが、三人は怯えた表情でこちらを見ている。
自分の攻撃に恐れをなしたのかと、瀞が誇らしげに胸を張ろうとした瞬間。
「ひぅっ!」
背筋を冷たい何かが走り抜けた。氷水をかけられたような寒気だ。
その正体を、瀞は知っていた。
(これは・・・・・・殺気!!)
同時に、背後から純度の高い熱を感じる。その熱気は一瞬で瀞の身体を包み込み、逃してたまるかと言わんばかりに背中に伸し掛かり、手足にまとわりついた。
瀞は恐る恐る振り返った。そこには。
「せーい」
怒りの形相でこちらを睨みつけてくる氣雷の姿があった。顔の半分はエビチリソースで汚れており、それが血のようにも見え、氣雷の恐怖を際立たせている。
瀞はあまりの恐怖で尻もちをついた。自分が激突したことで氣雷の顔にエビチリソースがかかってしまったとは間違いないようだ。そして、氣雷が自分に怒りを向けており、何の言い訳も通用しないことは、彼の表情を見れば分かる。
完全に、手詰まりだ。
「あ、いや、その・・・・・・」
恐怖のあまり、言い訳も出てこない。
「お前・・・・・・」
氣雷が一歩、前に踏み出した。
すると。
「氣雷」
氣雷の肩に、和虎の手が置かれた。
(和虎隊長、助けてくれる・・・・・・げっ!!)
和虎に助けてもらえると淡い期待を抱いた瀞だったが、その希望は一瞬で消え去った。
氣雷の背後に立つ和虎の顔は、ノンアルビールでびっしょりになっていた。吹き飛んできた瀞が氣雷に激突した際、衝撃で氣雷の身体は和虎にぶつかり、和虎は手にしていたビールを顔に掛けてしまったようだ。
「ほどほどにな」
和虎の許可を得た氣雷は、しゃがんで瀞の足首をがっしりと掴んだ。
「必殺!」
「ひっ!」
そして、牙を剥きだして凶悪な笑みを浮かべ、その場で独楽のように高速回転を始めた。さながら、ジャイアントスイングのように。
「大雪山おろしぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!!」
「あああああああああああああああああ!!!!」
先程の瀞や志龍とは比較にならないほどの速度で、氣雷は回り続けた。やがて小さな竜巻と化し、周囲にいる獣人たちの体毛がなびく程度のに風が生じるほどに。
遠心力により瀞の頭に血が上り始めたころ。
「っしゃああああ!!」
氣雷は瀞の身体を天井に投げつけた。
ビタンッ!!
瀞の身体は、大の字の姿勢で天井に衝突した。車に潰された蛙のように。
あまりのダメージで動けなくなった瀞は、天井から剥がれ落ち、畳の上に落ちていく。
同時に、瀞の意識もまた闇の中に消えていった。
(何でこんな目に遭わなきゃいけねえんだ)
理不尽な暴力により苦しまなければならないという、辛い現実を嘆く瀞の心の叫びは、誰にも届かなかった。
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日が沈み、残光も消え、全てが黒く染まった時。
海上飛行を楽しんでいた燕は、既に島の中にある自宅の中にいた。
シャワーで汗を流し、壁に取りつけられた全身ドライヤーで羽毛を乾かし、淡い水色のシャツに短パンというラフな服を着て、檜で作られた長い廊下を進む。
両脇の壁には等間隔で掛け軸が掛けられている。そこには、多種多様な獣が墨で描かれていた。黒豹、馬、鷹、燕、蜥蜴、蛙、鮫・・・・・・麒麟や龍など想像上の獣もいた。姿勢も様々で、身を低くして飛びかかろうとしていたり、翼を広げて飛翔していたり、座り込んで休んでいたりと様々だ。どの獣も生命力と躍動感に溢れており、唸り声や羽音と共に掛け軸から飛び出してきそうだ。
燕が絵を眺めつつ歩いていると、その耳にピアノの調べが流れ込んできた。切なくなるような、憂いを帯びた音楽が。
燕が廊下を進んでゆくと、その音は徐々に大きくなっていく。足早になった燕は、廊下の突き当りに辿り着き、障子戸を開いて部屋の中に入った。
そこは、畳が敷かれている木造建築の広い和室だ。調度品はもちろん、部屋のあちこちに点在している鎧や水墨画などの芸術品も和風のものが多い。
しかし部屋の主の趣味なのか、洋風の調度品もいくつかあり、西洋の甲冑や絵画なども並べられている。
和洋折衷の雰囲気がある部屋の奥、提灯を模した電気の下には大きなグランドピアノがあり一人の獣人が切ない調べを奏でていた。
演奏者は、黒いスーツを着た壮年のキリン獣人だ。本物のキリンではないが首は長く、20センチは超えているだろう。元々長身ということもあり、頭の位置はかなり高い。
キリンは楽譜を眺めつつ、流れるような動きで手を動かし、細くしなやかな指で優しく鍵盤を叩き、美しい音色を奏でている。
燕はそれを聞き、心地よい感覚を味わいつつキリンに歩み寄った。すると、燕に背を向けたまま、キリンが口を開いた。
「おかえり、奈多(なた)」
「戻りました、宗麟(そうりん)さん」
宗麟と呼ばれたキリンは演奏を止め、椅子を回転させて腰かけたまま燕の方に体を向け優しく微笑んだ。紳士的な顔たちをしており、黄色に茶の斑点がある毛並みは整えられ艶があり、清潔感のある高価なスーツがよく似合う。首の長さのせいで腰かけていても燕を見下ろしているが、威圧感を与えない空気を身にまとっている。
奈多と呼ばれた燕は、そんなキリンにお茶が入ったボトルを渡した。
「ありがとう。丁度喉が渇いていたんだ」
演奏の後に緑茶で喉を潤す。宗麟の行動を、奈多は把握していた。
「会議はかなり長引いたようですね。お疲れさまでした」
「ああ。ちょっと疲れたよ。でも、その分今日は食事が豪華だからね。楽しみだ」
「もうそろそろ時間ですね」
「ああ」
「すぐに着替えます」
奈多は衣服が収納されている箪笥の元へ行くと、手早く服を脱いだ。
「今まで弾いていた曲、いいですね」
「そう?」
「私は好きです。切ない感じが」
奈多はスーツを着ながら、宗麟に曲の感想を告げた。宗麟は、褒められることが大好きだ。
宗麟は、奈多がお世辞を言わないことを知っている。嬉しそうに笑い、茶菓子が入っている戸棚へと歩き出した。
「スーファミのゲームの曲なんだけど」
「今のが、ですか。あなたが弾くと、偉人が作ったクラシックか何かと思ってしまいますね」
「言いたいことは分かるけど、クラシックだろうがゲーム音楽だろうが、差はないよ」
宗麟は、棚からクッキーを取り出し頬張り始めた。
「夕食前ですよ」
「これくらいなら大丈夫だよ」
宗麟はクッキーを2枚平らげると、近くにある抹茶色のソファーに腰を下ろした。
「ラスボスがいるステージの曲なんだけどね。主人公は、ラスボスに復讐に来たんだよ。彼はラスボスから不意打ちを受け、力を全て奪われ、極悪人の汚名を着せられたからね」
「そのラスボスとやらは、相当な極悪人ですね。主人公の恨みは、相当なものでしょう」
「ああ。でも、主人公がラスボスを恨んでいたかは分からない。心情が分かるような描写がないからね。ドラクエの主人公みたいに」
「恨んでいるからこそ、ラスボスの元へ行ったのでしょう」
「どうかな・・・・・・主人公は、闘争本能の塊みたいな奴だ。強い相手と戦う事しか考えていない。恨みなどなく、強いラスボスと戦いたかっただけなのかもしれない。現に彼は、エンディングの後、手にした力を全て捨てている。他の誰かが力を手にし、自分に挑んでくることを願って。彼の性格が唯一分かるシーンだ。もしかしたら、復讐じゃなかったのかもね」
「酔狂な奴ですね」
「僕は嫌いじゃないがね」
奈多は着替えを続け、宗麟は別のクッキーの箱を開けた。
「一方のラスボスも、自分の元に来た主人公が来ることを待っていたんだ」
「自分で攻撃しておきながら、ですか」
「主人公と戦うことで、真の力を得ることが出来るからなんだ。でも、それだけじゃない気がするな」
「と、言いますと?」
「ラスボスは主人公に対して、何かしら、特別な感情を抱いていたんじゃないかな。待っていたぞ、っていうシーン、ラスボスは本当に嬉しそうに見えた」
「昔のゲームのグラフィックで、感情をそこまでリアルに表現できるんですか?」
「妄想で補完したの」
「そうですか」
宗麟は、クッキーを頬張りながら続けた。
「主人公も、ラスボスに対して同じ感情を抱いていたようにも見える。そういう風に深読みすると、ストーリーに深みが出てきて、より楽しめるんだよ」
「思い合っていた、ということですか。しかし、結局は戦ったんでしょう」
「ああ。殺し合った」
「愛と憎しみは紙一重、というべきでしょうか」
「僕は、その言葉、嫌いだな。愛と憎しみが似ているはずがない。本当に愛している相手に対して、憎しみなど抱くはずがないんだ。憎いと思った時点で、もう嫌いになっているはずさ」
クッキーを平らげた宗麟は、紺色のスーツを着込んだ奈多に近づき、後ろからそっと抱きしめた。小柄な奈多を、心身ともに優しく包み込むように。
「愛し合う者同士に憎しみは生まれないよ」
「人によりますよ」
「そう?」
宗麟は、奈多の頬にそっと頬ずりした。
奈多は目を閉じてキリンの美しい毛並みを、その下の暖かい体温を感じ取り、シトラスの香りを嗅ぎつつ宗麟にそっと体重を預けた。
「彼らは愛し合っていなかったのか。それとも、殺し合うことが彼らの愛だったのかな。なにせ彼らは悪魔だから」
「人じゃなかったんですか」
奈多は宗麟から離れると、箪笥の脇にある戸棚から自身のスマートフォンを取り出した。
「ああ。だから、僕たちの常識は通じないのかも」
「そういうものですかね」
「愛以上の殺意かな・・・・・・まぁ、僕は、愛している相手を憎んだり、殺そうとしたりはしないけどね」
宗麟は、奈多に手を差し伸べた。
「行こう。美味しいディナーが待っている」
奈多は頷いて、宗麟の手を取った。
キリンと燕は、寄り添って部屋を後にした。