月明りのみが照らす夜の空間。
日差しの中多くの人達が集い汗を流す運動公園のグラウンドも今はだれの気配もなくひっそりと夜の闇の中にある。
そんな中……。
タッタッタッ……
はっはっはっ……
息を弾ませながら女性は走っていた。
少し地味な色のジャージに身を包み、シンプルなデザインのジョギングシューズで地面を駆けながら彼女は走る。
軽くなびくセミロングの髪や多少幼さを残すような顔立ちを彩る口元から漏れる息もこの夜のとばりの中ではいまいちつかみづらい。
そもそもこんな時間にこんな場所で一人走ると言う事自体考えればおかしな話だが―それでも彼女は走っている。
陸上部に籍を置く彼女が大きな大会を目の前にして不振に陥ってしまった事は彼女に大きな負担を課していた。
やるせない思いを抱きながらも彼女は走る事を求めずにはいられなかった。
陸上部のメイン選手としての義務か、成果を出す事への渇望か、それとも走りたいと言う思いからか。
その答えが出るかどうかさえわからないまま彼女は走っていた。
そうこうするうちに彼女はジョギングコースを離れ陸上競技なども行われるトラック付きのグラウンドへと走る。
本格的な競技場とは違いかなり簡素なつくりではあるがだからこそ彼女もこうしてこっそりと走る事も出来たのであろう。
グラウンドの一角まで走った所で彼女はようやく走りを止める。
膝に手を置き少し荒くなった息を鎮めながら彼女はそばに置いてあったバッグからタオルを取り出しにじんだ汗をぬぐい、スポーツドリンクを軽く口に含む。
ようやくひと心地ついた彼女は軽く力を抜いた姿勢で周りを見回す。
月と星、そして遠くに見える町の灯りを除けば照らす灯りもなく見る者もいない暗がりと静寂に包まれたグラウンド。
しかし、今の彼女にはそこはうってつけのフィールドである。
彼女が走り抜きつづける為の……。
ふぅっと吐息を漏らすと彼女は再び片隅に向かい、そこでジャージを脱ぐ。
ジャージシャツのファスナーを下ろし、静かに袖を抜く。
ジャージズボンの腰に手をかけ、静かに引き下ろしながら裾から足を抜いていく。
脱いだジャージをカバンの中にしまうと次はジョギングシューズを脱ぎ、用意していた別のシューズに履き替える。
そして何か手袋のようなものを取り出すとそれを両手にはめる。
一通り準備が済んだ所で彼女は再びトラックの上に立つ。
月明りに照らされた彼女の姿、それは……。
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上下セパレートの陸上用ウェア。
最近の女性陸上選手のユニフォームとして定着している独特のデザインのウェアを彼女は身に着けている。
一見水着にも見えかねないそのデザインは彼女自身としては多少敬遠していたがそれでも彼女の清楚そうな顔立ちや体格との良い意味でのミスマッチさが魅力を引き出していた。
ボトムウェアから伸びる足の先を覆っているのはなぜか足袋―に見えるシューズ。
その白い足元とミスマッチな黒いシューズは足袋と言うより馬の蹄のような印象にも見える。
トップから伸びるしなやかな両腕の先、その少し小さい両手には同じく黒い指ぬきグラブがはまっている。
薄手でシンプルなデザインのグラブから伸びる細長い指がどこか美しさを感じさせる。
清楚さを感じさせる自身の顔立ちと体格にどこか不似合いな良く言えば機能的・きわどい言い方をすれば官能的な競技スタイルをまとい彼女はトラックに立つ。
軽く瞳を閉じ、静かに呼吸を整えながら彼女は身をかがめクラウチングスタートの姿勢をとる。
心の中でカウントダウンが響く。
ゲットセット……
足に力を込める。
レディ……
毅然とした瞳をその先に向ける。
ゴーッ!
その瞬間、彼女は飛び出した。
夜の闇の中、ほのかに浮かぶトラックをひたすらに走る。
踏み出す。駆ける。
その細い足を必死に振り上げ、地面に突き出すように駆ける。
そのしなやかな両腕を精一杯ふって前に出る。
走る。全力で走る。
ただひたすらに―走る。
カーブを駆ける減速や風圧も振り切りながら走る。
走るたびに足を包む足袋シューズが、両手にはめた手袋が、そしてセパレートウェアが彼女の体を引き締める。
その度に彼女の体がそれを押し戻し、その勢いが彼女をさらに前に進める。
申し分ない走り。少なくとも純粋に走る事を求める者からすれば理想的な走りの一つがそこにあった。
走る、走る、走る……そして―フィニッシュ!
ゴールに飛び込んだあとの減速の中でようやく彼女は緊張を軽くほどく。
走る事に臨む者だけが感じられる一瞬。
その中に彼女は一瞬身を置いていた。
ようやく足が止まり、彼女は軽く歩きながら呼吸を整える。
両肩が軽く上下し、乱れた髪がなびいている。
それらを整えながら彼女は何かを感じていた。
もっと、もっと走ってみると。
そんな思いの元彼女は再びバッグの所まで歩くとその中から何かを取り出した。
それを手にながら彼女は髪をかき上げるとゴム紐でその根元を縛る。
さらに手にしていたものを両手に持つと一気に顔に当て引き下ろし密着させる。
一連の動作が終わった彼女は―。
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そのセミロングの髪はポニーテールに結い上げられ、その幼さを残した顔立ちは目元を覆う覆面に隠されていた。
ただでさえ見る人次第ではきわどさを感じさせるウェアを身に着けていた事もあってかその姿は古いヒーローコミックの女性戦士か覆面女子プロレスラーかと言わんばかりのものとなっている。
メンコ・あるいはブリンカーと呼ばれる競技用の馬の顔に被せる装束。
これにより多少なりとも馬は競技に集中できると言うそれを知ったのはある休日、たまたまチャンネルを合わせた競馬中継でその奇妙なデザインに心惹かれるものを感じたのがきっかけだった。
なんとかそれに近いものを入手し今こうして身に着けている訳なのだがまともに考えれば陸上競技で身に着ける装束ではないのは確かである。
しかし、今の彼女にとってはさらに走り続ける為に必要なものであった。
その素顔をぴっちりと引き締める薄手のメンコ。
うまくは感じられないがそれにより彼女の視界がより前に向いた様な気がした。
より前に進める。走る事ができる。
馬の蹄を思わせるシューズにポニーテール、そして競技用の馬が被る様な覆面と彼女の出で立ちはほとんど馬であった。
そう考えれば両手にはめた指抜きグラブも馬の蹄に近い。
まさに馬、人の姿でありながら馬の仮装をしたかの様なノリで彼女は再びトラックに進む。
少なくとも彼女は真剣だった。
その顔も、まなざしもまぎれもなく先に進もうとする者のそれだった。
再びクラウチングスタートの姿勢に入る。
指ぬきグラブと足袋シューズ越しに手足に力を入れる。
ポニーテールの髪を揺らしながら顔を上げ、メンコから覗く瞳が先を見据える。
そして―再び飛び出す。
走る。走る。ひたすら走る。
足袋ブーツに覆われた足がトラックを駆け、指ぬきグラブに覆われた手が激しく前後に揺れる。
ポニーテールが吹き抜ける風に揺れるがその瞳は引き締められたメンコの中から揺らぐ事なく先を見ている。
その体の動きを支えるようにウェアが体を引き締める。
走る。走る。
サラブレッドの様に優雅に、ムスタングの様に力強く。
大きく呼吸を繰り返しながら彼女は走る。
走る。走る。走りたい。走りたい。
もっと、もっと。
身に着けているものが体を引き締め、彼女自身の体がそれを押し戻そうとする動きの中で彼女は思った。
走り続ける高ぶり、荒々しい息吹。
文字通り天高く駆け上りたいほどの衝動が彼女の心を、体を突き上げていく。
なぜかその脳裏に一頭の馬の姿が重なる。
その馬の様に走りたい、馬になりたい。わたしは……。
走り続けながら高まる心身の力と彼女の思いが重なり合い―彼女の意識ははじけた。
その瞬間―。
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一瞬体がもつれて倒れそうになった時、彼女はその「前足」を出してバランスを取り、そのままその四肢のすべてを使って駆け出した。
その手足は細くもたくましい筋肉に覆われ、グラブと足袋ブーツに覆われていた手のひらと足先は蹄鉄をはめた固い蹄となって地を駆ける。
ウェアに覆われた体はそのプロポーションを失い太く長くなりながらその四肢を支える。
その尻の先からは鮮やかな尾が伸びている。
メンコに覆われた顔からピンと伸びた耳がまっすぐ頭頂に、鼻先と口元を巻き込みながら伸びる顎がメンコの口元から伸びていく。
馬―それが今の彼女の姿だった。
一頭の牝馬が優雅に、それでいて力強くトラックを駆ける。
彼女自身は自分が馬に変わった事をわかっているのだろうか。
いや、自分がかつて人間だった事を覚えているのだろうか。
そんな理屈は今の彼女にはどうでもよかった。
ただ走る。それが今の彼女のすべてだった。
どんな距離だろうと駆け抜ける。どんな障害があろうと乗り越える。
今はただそれだけだった。
走り、走り、駆け抜け、駆け抜ける。
その走り抜けた先―その瞬間、彼女は何かを吹っ切れた事を感じた。
それを感じながらようやく彼女はゆっくりと歩みを緩める。
静かに歩むその動きはやはり美しく、力強い。
歩みながら彼女は高らかに鳴いた。
それは彼女にとって価値あるものを勝ち取った歓喜の凱歌であった。
余韻に浸りながら彼女は静かにその場に倒れ込み―そのままかき消される様に崩れ落ちる。
そこにはセパレートウェアに身を包んだ人間としての彼女の穏やかな寝顔があった。
いつの間にか髪もほどけ、メンコも顔から外れて素顔があらわになっている。
はたして全ては走り続けた彼女が見た妄想だったのか、それとも走り続けた彼女の意識が引き当てた一瞬の軌跡だったのか。
それを知るか知らずかさえわからないまま彼女は静かに寝息を立てていた。
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彼がその馬を見たのはほんの偶然だった。
絵画コンクールに出したい絵の構図がまとまらず悩みながら夜の町をさまよううちに導かれる様にその公園に足を運んでいた。
グラウンドのちょうど観客席にあたる場所に腰を下ろし夜空を眺めていても絵になるものを見いだせず悩んでいた時、その馬を見た。
白く、大きく、美しいその馬は力強く美しい足取りでトラックを駆けていた。
いつ、どこから、どうやってその馬が現れたのか。
その馬は何物なのか。
そんな事はどうでもよかった。
彼は手にしていたスケッチブックにひたすらその馬を描き続けた。
その馬がグラウンドから姿を消してもなお描き続けた。
スケッチブックが馬の絵でいっぱいになってもなお彼は描き続けた。
彼の背後をジャージ姿の女性が通り過ぎて行った事さえ気づかず彼は描き続けた。
彼がようやく我に返り、スケッチブックいっぱいに描き溜めた思いをキャンバスに描くためにその場を後にしたのは時計の針が日付を越えた頃だったと言う……。
彼女がその絵を見たのは大会の後間もない頃であった。
少なくとも彼女としては十分に走り切りそれにふさわしい成果を上げた事、そしてさらに走り続ける心を持てた事が最大の成果と感じており迷いも不満もなかった。
そんな時、たまたま通りがかった先で見つけた一枚の絵。
上位入賞したその白馬の絵に彼女はふと自分の中の何かがツンと刺激された様な感覚を覚えた。
それが何なのか、その答えを彼女が知る時は―さだかではない。
了