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「おい。ヌシぁ熱でもあんのか?」
扉から顔を覗かせた妻、アザミが途端に眉をしかめた。
熱がある。そう思われても仕方ないかもしれない。昼頃からずっと体は火照るし、汗がとめどなく流れる。おまけに…
「ツリフネ(斐磨(ヒマ)族の呪術師)でも呼ぶか?薬の一つでも煎じてくれんじゃろ」
顔を寄せたアザミの口から紡がれた女の名に、頭が熱くなった。
「ダメだ‼ いや…アレだ…元はと言えばアレのせい…で、っ…こんな…」
“こんな事“を話してもいいのか…舌がもつれた。そんな私を不思議がるように小首を傾げたアザミは私を室へ誘(いざな)い、そっと戸口を閉めた。
汲み置いた甕の水に布を浸し軽く絞ると、それを私に差し出す。滴る汗をぬぐった。川の冷水ではないが、火照った身体の私には気持ちよかった。
「ほんで?何がなんじゃと?」
どっしと腰を掛けたアザミが問う。躊躇しながら、私は口を開いた。
「…っ…の、…が」
「あぁ?」
はっきりしない事を嫌う女だ。不機嫌にも見える顔をぐっと寄せた。
「だから…その…」
何とも言えず私はうつむく。大きくそそり立った“へのこ”が衣を押し上げていた。
私は…どうすればいい?
*
「あんたお腹の調子でも悪いんとちゃう?」
いきなり耳に飛び込んできた声に、びくりと体が揺れた。
声の主は遠慮する様子も見せず、ずずいと身体を寄せてくる。豊満な乳房が、私の目に映っていた木簡を遮った。
「…私に触れるな」
なるべく顔を見ずに、私は女の体を押しやる。声の主が誰かは分かっていた。このような身の程知らずの無礼を働く者など一人しかいない。アザミが郷(さと)から侍女として連れてきたツリフネだ。
山奥の少数民族である彼らには身分の序列という感覚がない。ゆえに侍女とは名ばかりで、柔(ニコシ)族の媛(ひめ)であるアザミを敬う事もなければ、その夫であり国宰(くにもちのみこと)の嫡子である私にもこの調子であった。慣習と言われればそれまでだが、国に入った以上従ってもらわねば他の者に示しがつかない。
「下の者は上の者を見てはならない。目を伏せ後ろへ下がれ」
「なんでや」
なぜだと…?
込み上げる不快感を押し込みながら、女を見る。ツリフネはくるりとした大きな目をしばたたかせ、紅を刷いたような真赤の唇を小さくすぼめていた。全く好感は持てないが、こういう者を巷間では美しいというらしい。
「…お前は言葉がわからいのか?」
嫌味を込めて一睨したが、ひるむ様子は微塵もない。
「アホやな。言葉は分かるで。せやけど見たらあかん“ゆゑ(理由)”がわからへんねん。人と話す時は目ぇ見んのが“ゐや(礼儀)”やで」
「…アホ?」
「なんでもええけど、あんた調子悪(わり)ぃやろ?別にうち、あんたが苦しんどってもかまへんのやけどな…」
「…」
日頃それほど苛立ちを感じることもないのだが、どうもこの女を前にすると腹が立つ。何事か文句を言ってやろうと身を乗り出す。が…
「アザミが心配しよるやろ、あんたの事」
ツリフネの言葉にのせられた妻の名が、私の機先を制した。苛立ちは瞬時に消え、代わりに哀愁が心を包んだ。
「アザミは…彼女は、私の心配などしないだろう…」
*
9年前宗主国「千原国(チハラノクニ)」の命を受けて我が深山(ミヤマ)は柔国(ニコシノクニ)を制圧した。それ以来クニを統治しているのは深山である。アザミが己に嫁(か)してきたのも、在来の国衆を深山の下に治めるためだ。当時まだ幼かった私と違って、アザミには戦の記憶が色濃い。婚儀の席で掲げられた深山の幟(はた)に対し激しい怒りを見せたのもその表れだろう。
私達個人の間に怨恨が無くとも、彼女にとって私が仇であることに変わりはない。深山がこの国を治めることになった経緯を思えば、そう考えずにいられなかった。
私にとって、彼女の心はまだ遠い…。
遠望しかけた私の気を、ツリフネのせせら笑いが引き戻した。
「あんた足しげく通っとる割に、あの娘(こ)のことわかってへんのやね。無愛想やけど、情の厚い娘やで。それにアザミは好いてへんもん、そばに近づけたりせえへんよ?」
「…それは下の者の考えではないか。家に生まれた者には相応の務めがある」
アザミは深山の家に嫁した女だ。女は家の子を成さねばならない。好きも嫌いもないのだ。と、言っても詮無いか…。ツリフネのような者に“家”などわかるはずもない。説いてみたところで無駄だろう。
話すのも馬鹿馬鹿しくなる。ふと目を逸らすと、今度は乾いた笑い声が響いた。
「え?あんたイエの為にアザミ抱きに来とんの?気持ちわるっ」
「だ……っ下世話な物言いをするな!」
「いや、なに?まぐあい?言い方変えたってやること同(おんな)しやんか」
からからとした笑い声を立てながら床に転がる。
だらしない女だ…下品だし…。
ひとしきりに笑ったツリフネが転がったままこちらをちらりと見た。
「イエがゆゑやったら、なんでそんな塞いだ顔しとんの?アザミがあんたをどう思おうが関係(つれも)ないやんか。やることだけやっとったらええで」
「…」
そうなのかもしれない。それだけでいいのかもしれない。だが、あの険のある琥珀色の目がうっすらとした情愛をのせて微笑むのが、たまにたまらなく愛おしく感じるのだ。
「ま、うちはあんたの胸の内なんてどうでもええんやけどな」
身も蓋もなく言いながら、ツリフネは胸元をごそごそ探った。
「うちええもん持ってきたんよ。夏負けによう効くで」
目の前に差し出されたのは黒々としたトカゲのようなものだった。
「ヒマのまじないさんに伝わるタレに漬けて干したサンショウウオや。手間暇かかるで、ホンマは請われたって小指の頭ほどしかやらへんのやけどな。あんたアザミの“大事”やさかい、一本まるっとやるわ」
アザミの大事…
どこかくすぐったさを感じながら、干物を受けとる。特段美味しそうにも見えなかった。
「元気になるもん、よーさんはい入っとるさかい、すこしずつ大事に食べんのやで」
それだけ言うと、もう用は無いとばかりにツリフネは外へ消えた。
「滋養の類か…」
ここのところ暑くなって、食べ物を受け付けなくなっていたのは確かである。
干物をまじまじ眺める。鼻を近づけると微かに香草の香りがした。頭をかじるとわずかな塩味を感じられたが、味という味もない。しばらく咀嚼を繰り返すと出汁が出てきた。
「美味とは言えないが、珍味ではあるかな…」
一口。そして一口。気づけば全て食べ切っていた。
「滋養に良いのであれば、食の細くなった老者に湯付けにして食べさせてやってもいいかもしれないな…」
久々に腹に物を納めた私は、満足して一人ごちた。
異変に気づいたのは昼を過ぎてからである。
身体全体が火照って、汗が止まらない。あからさまなへのこの勃起。さらに運の悪いことに、今日は人が多く訪れた。私は身体を屈めながら、ひたすらに平静を装って対応に務めた。
しかし最後に訪れた目付役のトクサは異変に一目で気付き駆け寄ってきた。
「お加減でも悪いのですか。薬師を呼びましょうか」
「何でもない。何もない。触るな…」
冗談じゃない。こんな姿を見られたら、この固い頭の男に何を言われるかわかったもんじゃない。
私はトクサを邪険に追い払うと、日暮れを待たず早々に自室に引っ込んだ。しかしどうにも身体が治まらない。誰に見せるわけにもいかず、ほとほと困り果ててアザミのところへやって来たのだった。
∗
「やはりあのような者を信用すべきでは無かったのだ…」
「ツリフネは少しずつ言うたんじゃろ?まさか丸ごと食うような食いしん坊じゃとは思わんかったじゃろ」
肩を落とした私にアザミはそっけない。
「食いしん坊ではない…」
「ツリフネが言うにはよぉ、この世に薬なんてもんはねぇんじゃと。日頃食うとるもんのほかは、毒での。少しの毒を使(つこ)うて身体をええ方にはたらかすらしいぞ。じゃからツリフネは毒を作るっちゅうし、他のもんに触らせんじゃ」
「毒…か」
体の弱った者に与えようと考えていた己を思い起こす。下手に手を出すべきではないという事か。今も収まる気配のないへのこに目を落とした。
「ほんで、なんぞヌシはワシんとこ来た?」
「なんぞって…他の者になど見せられぬだろ…」
盗み見たアザミの顔にこれといった情は感じられない。いつも通りと言えば、いつも通りだ。
やはり彼女の心はまだ遠い。
私が“大事”などであろうか…。
「己の身体なれど、煩わしいか? 婿殿」
彼女に抱いた淡い期待を追いやり、己の室に戻ろうと腰を浮かせた私に思いがけず言葉が掛かる。
「…まぁ」
煩わしい。確かに煩わしい。アザミといれば収まるどころか膨れ上がるばかりであるのだから。煩わしいというか、悩ましい。
「わっ…」
瞬く間に膝の中へ引き込まれた。
「ツリフネも言葉足らんかったの。ちっせぇヌシの身体には煩わしいじゃろの…」
二人張りの弓をも引く逞しい腕が、私の身体を抱えている。小山が隆起するような腕の筋を私はそっと撫でた。
「ヌシの精、抜けるまで付きおうたる…」
首筋にかかった吐息に振り向くと、琥珀色の瞳が微かに揺れていた。湖面のような揺らぎは映った灯りの為だろうか。
「……はい」
込み上げた衝動を抑えるように息を呑む。
これもツリフネの毒のせいか?
今度は胸が熱くてたまらない……。
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