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生熟(なまな)れ (六) ー創世歴 302年 新越国 秋分ー

  ー長だなんだとイキがったところで、甲斐のねぇこんじゃ。

  アザミは回廊に出て、息をついた。

  納得出来ぬ訳では無い。長の娘という理由で、ただの今日初めて会った女だ。成人している訳でもない。そのような女に、いきなり[[rb:政 > まつりごと]]の一端を任せる訳もない。

  頭では理解しているが、どうにもやり切れない想いが渦巻く。アザミはもう一度深くため息をついた。

  「わっ」

  急に足元から声が湧き、どすんと何かがぶつかった。

  「ぉ?」

  見ると童子が鼻を抑えてうずくまっている。どうやらアザミに突進してきたらしい。

  「お前……前を見て歩かぬか…」

  童子は驚くほど大人のような口ぶりで、小さな肩をふるふると震わせている。

  前見てねぇのは互い様じゃろよ…。

  半ば呆れつつ、アザミは童子の前に屈んだ。

  「すまん、大丈夫か?」

  「だいたい端を歩けばよいものを、真ん中を堂々と……!?」

  童子は苦痛に歪ませた顔をひょいとあげ、あっと目を見開く。そして、その幼い顔をみるみる青ざめさせた。

  「傷を…負っているではないか」

  「あぁ……」

  ピリと額がひきつる。傷が乾くと皮膚がつっぱり、裂けるらしい。アザミの傷は日に何度も血を滲ませた。

  「ん……と……ついてこい」

  ふるふると辺りを大きく見回し、童子は立った。アザミを手招きすると、回廊を奥の方へ向かってスタスタと歩いていく。後ろから見ていると、ふっ、と振り返った。

  「お前、耳聞こえないのか?」

  首を傾げると、童子はふんと鼻を鳴らした。

  偉そうなガキじゃの……。

  タカハヤの事も気にはなったが、童子を放っておくのも面倒そうだと、アザミはゆっくり後ろをついて行った。

  連れていかれたのは、大宮の奥から橋で繋がる、小さな離れの宮であった。簡素とした室の中は空気が澄み、ひんやりとしている。

  アザミは童子が指した床に腰を下ろし、室の中を見回した。

  こっちの建物はなんでも真っ直ぐじゃの……。

  ニコシ族の建てる穴屋と違い、かんなを掛けられた木材はどこもかしもが方正として隙間がない。木の生まれ持った姿がなく、アザミにはどこか不自然にも感じる。

  「まずはコレで拭け」

  目の前に濡れた薄帛を差し出された。アザミが受け取ると、童子は室の隅にあった葛籠に頭を突っ込み、中を探り始めた。ともすればすっぽりと入ってしまいそうな葛籠を、懸命に探す姿が微笑ましくもある。が。

  「ヌシぁよ、もそっと年長に対する口の利き方気をつけた方がええぞ」

  「口の利き方?」

  体を半分葛籠に突っ込んだまま、顔だけをこちらに向ける。その表情は遺憾な様子だ。

  「お前は誰だ。見たところニコシビトのようだが…」

  ニコシの長じゃ、と言いたいところを噤んだ。今しがた己の無力さを感じたばかりである。

  「その……長の、子じゃ」

  力のない物言いになった。童子はふーんと関心もなさげに、再び葛籠へ顔を突っ込む。

  「それは失礼したね、ヒメ殿」

  少しも取り直さず、童子が言った。

  ニコシの女なぞ取るに足らんか。

  アザミは葛籠のへりに取り付いた童子の尻を忌々しげに見つめた。しばらくすると、手に何かを収め、童子は戻ってきた。不自然なほど顔を背け、グッと手を伸ばす。

  手の中には、厳重に封をされた甕が覗いている。

  「この薬を使うといい。傷、赤切れや火傷に効くらしい」

  「らしいっちゃなんぞ…」

  不自然な童子訝しがりながら、アザミは紐を解き、蓋を開けた。

  「くっ…せ……なん、じゃこりゃ!!」

  嗅いだことの無い独特な臭気が甕から漂う。アザミは童子のように顔を背けた。

  「だから、薬だと…」

  鼻を抑え、童子は答える。

  「ヌシぁ[[rb:らしい > ・・・]]っちゅうたな。効くのかコレ」

  「その臭気ゆえ、使った事は無い…が、医家として高名な家の者が調合した貴重な物だ」

  ずりずりと後ずさりながら、童子は喚く。

  「[[rb:使 > つこ]]うた事ねぇもん、よこすなボケ!!」

  アザミは甕を突きつけ擦り寄った。

  「ボケとはなんだ。戦場では欠かさぬと評判らしいのだ」

  「また[[rb:らしい > ・・・]]かよ」

  童子に悪意は無さそうだが、どうにも堪えられぬ臭いだ。アザミは甕に目を落とし、ふと閃いた。

  「ほしたら、ヌシが塗ってくれ」

  「えぇっ、なぜ私がせねばならんのだ!!」

  頓狂な声を上げる童子。アザミはちょいちょいと顔を指した。

  「己じゃ見えんじゃろうが」

  「そ、それはそうだが……」

  「ほれ、この通りじゃ」

  アザミは顔の前で両手を合わせる。童子はえぇぇ…と小さく呻き、恐る恐る甕に指を入れた。

  ぬちっー

  湿った音が甕から響く。

  「ひっ…」

  悲鳴をあげ、童子は指を抜いた。ねっとりとした灰緑の油が指にまとわりついている。

  「気持ち悪い……」

  文句を言いながら、童子はアザミの傷にゆっくりとそれを塗り広げた。

  [uploadedimage:20506438]

  触れられる痛みはあるものの、薬による刺激は無い。油分が傷をつつみ、引きつられる感覚は無くなった。効くというのは真の事らしい。

  「しかし……どうしたらそんな傷を負うのだ」

  童子は手を拭いながら、アザミのキズを見つめる。

  「熊に[[rb:会 > お]]うてよ」

  言うと、童子はピクリと体を震わせた。

  「くま…って、森に居るという大きなケモノの事だろう?それで……熊は」

  童子は両手を大きく広げて振る。

  「なに、こうして一突きじゃ」

  アザミは空を突いてみせる。

  「真に?」

  童子は半信半疑に目を向けつつも、口元に笑みを浮かべた。人の武勇伝に心が躍るのはどこの男子も同じらしい。

  本当はそう簡単ではなかった熊の話を、アザミは盛って話す。童子は楽しそうに聞き入った。

  「なるほど、わかったぞ。ヒメ殿は褒美を貰いに来たのだろう?」

  ぽんと手を打ち、目を輝かせる。

  「褒美なんぞねだっとらんわ……」

  「なぜ?郷の民を脅かす獣を伐ったのだ、褒美があってしかるべきだろう?」

  童子はすっと背を伸ばし、軽く咳払いをした。

  「主の用うるところに七術あり。三に曰く、信賞、能を尽くさしむ」

  「しゅ……の、もち……うる?」

  何言うとんじゃコイツ……。

  童子が突然話し始めた言葉は、聞きなれぬ音であった。意味を解せず首を傾げると、童子は小さく肩を揺らした。

  「褒めるべきを誉め、その者の力を遺憾なく発揮させるのが主たる者の勤めだ。主が信賞必罰を正しく用いれば、民は自ずと従うものだ。と、聞いたよ。これはね……」

  童子がそっと顔を寄せる。

  「上に立つ者が民を能く用いるための術だ」

  笑みを浮かべる幼い顔が、策士のように見えた。

  これがミヤマか。

  術を用い、民を使う。十に満たぬ童子とは思えぬ言葉に、アザミの血の気がさっと引いた。

  「人は利が無くば動かぬ。その欲を逆手に、主は民を用いるのだと書にあったが……違うのかな?」

  肩をすくめた童子の顔が幼子に戻って笑った。

  人が利だけで動くのなら、イサがあのように苛む事はない。ハリは難なくニコシに溶け込めるだろう。そう出来ぬものが彼らの中にはある。それこそが、その人がその人たる所以なのだ。

  この幼い童子に、それがわかるだろうか。

  アザミは視線を落とした。床には再び固く封をされた甕がある。アザミは甕を手に取り、目の前に掲げた。

  「ヌシは……なんぞワシに薬をくれよう思った。ワシに何の見返りを求めとる」

  アザミは尋ねた。

  「え?」

  童子は小さく声をあげる。

  「見返り……は、特に考えなかったな」

  「ヌシに利はあったか? 臭ぇ思いしただけじゃろが」

  「そうだな」

  「ヌシは、ワシを見て何を思った」

  言うと、童子は目を丸くして、アザミの傷をマジマジと眺めた。

  「そうだな。痛々しい。気の毒な……か?」

  「ほうじゃろよ。やはり人は利だけで動かん。ここじゃ」

  童子の胸を指す。

  「むね?」

  「心じゃ。他を思いやる心。利より大事じゃと、ワシぁ思うぞ」

  「こころ」

  童子は腕を組む。そして声を上げて笑った。

  「そうか。そういう考えもあるか。貴女の話はいいな」

  途端に立ち上がり、葛籠の方へ駆けていく。またしても体を葛籠に突っ込んだ。

  「私の周りには胸の内を言わぬ者が多い。忖度だと言う。誰も聞きもしないのに、私の心を勝手に決めてしまう。私は認めてもらいたいのでは無い。他の者の考えが聞きたいのに……」

  童子は胸いっぱいに木簡を抱えて出た。

  「時はあるか? まだ話を……」

  言いかけた口を、童子は閉ざした。遠くから老人の声が呼んでいる。

  「あぁ……ダメだ。呼ばれていたのだった」

  目を伏せた童子は後ろを向くと、葛籠にガラガラと木簡を戻す。

  「えぇのか?」

  寂しげに見える背に、アザミは声をかけた。

  「えぇ。私にはやらねばならぬ事があるからね」

  童子は甕を持ったアザミの手を包んだ。

  「これは持って行っていい。早く、治るといいね」

  回廊に出た童子が振り向く。

  「見返りは求めてないよ。思いやり、ね」

  トントンと胸を指し、童子はアザミを残して消える。

  少しは伝わっただろうか。

  アザミは「思いやり」と告げた童子の姿を、甕と一緒に懐へしまった。

  「アザミ、アザミ……」

  周りを憚るような小さな声が、アザミを呼んでいる。回廊へ出ると、タカハヤが落ち着きなく辺りを見回していた。

  「タカハヤ!!」

  声を上げると、タカハヤはビクリと体を揺らし、アザミを呼んでそそくさと宮を出た。

  「勝手にウロウロされると、肝が冷えるわ」

  「勝手にじゃねぇ、呼ばれたんぞ」

  タカハヤは不可解そうな目をしたが、アザミは手を振って濁した。

  「ほいで、コモタチはどうなった?」

  カヤマノサトに帰る道すがらアザミは尋ねる。

  「おぉ、それそれ……」

  コモタチの労役が終わるまで、此度訪れたヤマケの者が当たる事になった。ヤマケの者なら、カヤマに痛手は無い。コモタチにとっても既に見知った者であるから、抵抗は無いだろうとの事。特別措置ゆえに、あまり事を広めたくないという事もあるようだ。

  「オオサコはやはりミヤマ側の警戒が強いけん、動かせんと言われた」

  折衷案と言ったところじゃとタカハヤは呟いた。

  「実の所、オオサコの賊はニコシ者じゃと思うか?」

  ミヤマを恨むものは少なくない。決して無いとは言いきれないと、アザミは思わないでもない。しかしタカハヤは大きく頭を振った。

  「ワシぁ、ヒマ者だと思っちょる」

  「タカハヤ……ヒマ族は絶えたじゃろ」

  戦の後、何度も山狩りがあった。一人、一人と死に、遂にヒマ族の姿は消えた。タカハヤのヒマ嫌いはわかるが、なんでもヒマ族に被せるのは……と、アザミはタカハヤを見る。

  タカハヤはついと眉をあげた。

  「絶えたのは泊まりのヒマ族じゃ。言うたろ。ヒマ族には泊まりと、渡りの一派がおる。南から西にかけて、渡りの一派を束ねとった男は死んどらん、と、ワシは睨んどる」

  タカハヤの話によると、東は泊まりの一派が多く、ヤマタヅという男が治めていた。ハリの父で、アザミ、そしてタカハヤの叔母が嫁いだ男だ。一方で各地を転々とする渡りの一派にも、それらをまとめる者がいて、その男の名をオグマと言った。

  オグマの一派はニコシより早くチハラの侵攻を読んでいたようで、思えば戦の前から姿を見かけなかったという。

  「そのオグマが戻ってきたっちゅう事か?」

  「あぁ……。チハラはの、クニを行き来する荷に税をかけるけん。物を売り買いする者にはちと面倒じゃ。己の持つものすべてを己のもんにできん。加えて国境の警備も厳しい。なかなか抜けられんとの話じゃ」

  「ほいで……」

  「腹いせもあるかもしれん。賊がどんな者かは定かではねぇが、山に逃げ込まれると、てんで分からんとよ。郷を探しても荷は出てこんし……ニコシの者ではねぇと思う」

  税か。

  アザミはふと考える。ニコシには無かった物である。

  「しかし、人の物にまで手ぇ出すとは、やはりチハラビトは[[rb:欲張り > よくどう]]じゃの」

  「まぁのぉ……しかしこういうのもある……」

  古来からニコシでは瑪瑙がよく取れた。たまに川に現れるそれをニコシビトは拾い、北のウカミノクニとの交易に使った。ウカミは石が好きらしく、代わりに鉄器を寄越した。ニコシビトは喜んでウカミに石を流していた。

  しかし、チハラの臣であるミヤマは個々の取引を禁じ、ウカミとの国境を塞いでしまった。

  そう言えば聞いた話だと、アザミは頷く。

  「鉄はええもんじゃろが、なんぞチハラは禁じとんのじゃろの」

  タカハヤは訳知り顔で頷く。

  「ウカミにゃ優れた石工がおるそうじゃ。細工をした石をの、海の向こうへ売る。そうすっとの、今度は質のえぇ鉄を手に入れられんのじゃと」

  「鉄にええも悪いもあんのか」

  鉄はひとつでは無いのかと、アザミは目を丸くする。

  「あぁ。向こうの大陸じゃ、鉄をよう溶かす炉があんのじゃと。こっちの鉄とは強さが違うゆう話じゃ。ウカミはワシらに安い鉄を売り、同等で手に入れた石を高く売っとった訳じゃ」

  よく出来た話だと、アザミも頷いた。もしかしたら長い間ニコシビトは損をしてきたのかもしれない。

  ヒマ族の話にしても、ウカミの話にしてもタカハヤはよく知っているものだと感心した。己などは郷の周りのことしか知らない。

  「のぉ、タカハヤはなんぞ父さの跡を継がんのじゃ」

  アザミの弟はまだ生まれたばかりだ。年齢も資質も、アザミが弟の代わりをするより、タカハヤが務める方が良いのでは無いか。

  しかしタカハヤは頭を横へ振った。

  「ワシはイサと[[rb:同 > おんな]]しじゃ。ワシは……一度逃げた男じゃけ」

  ミヤマが軍勢を率いてヤマケノサトに達した時、タカハヤは同じ歳の子らと、狩りに出ていた。郷の異変に気づき、引き返した頃には郷は火に包まれていた。

  タカハヤはすぐさま子らを引き連れ、途中の郷里に知らせながら、北上し、ニコシノサトに辿り着いた。知らせを聞き、ニコシの長が立った頃には、ヤマケノサトは無くなっていた。

  郷を助けなかったという事が、タカハヤに暗い影を落としている。だか、それは今ニコシに生きる者に共通する想いであった。死んでいった者への憧憬。征服者に従う窮愁。

  「誰も責めん……みな同しじゃ」

  「……それによ。ワシはいつかヤマケに帰ろう思っとる。ヤマケで暮らせるならミヤマの下でもええ。そんな者は皆の上には立てんさ」

  そう言い、不意にタカハヤが肩を揺らした。

  「ワシはヌシのようには強う言えん。今日危うく首が飛ぶかと思うたわ」

  からからとひとしきり笑い声を立て、タカハヤは声を落とす。

  「ヌシは強ぇ女子じゃ。長はヌシが良かろうよ」

  「……」

  イサの姿が頭によぎる。

  強い事が良い事か。

  以前は自信を持って良いと言っただろう。しかし今のアザミにはわからなかった。

  それから数年。アザミはタカハヤや父と共に、ニコシの郷里を巡った。ニコシノクニは広い。山中に点在する部落はそれぞれに色があり、慣習もどことなく違う。アザミはそれぞれの郷に身を置き、その色を肌で感じ取り、身につけていった。

  婿の話はいくつも出たが、これという者には巡り合わなかった。その内に一人、また一人と妹は嫁ぎ、五年も経つとニコシの[[rb:女 > むすめ]]はアザミと七つになるアサツキだけになった。

  長として十分に立てる身となったが、女としては既にいき遅れた形となったアザミを妻にと望んだのは、あのミヤマの子であった。

  もっとも互いにその時の事などとうに忘れ、初めて出会うように二人は目合い、[[rb:夫婦 > めおと]]となる誓いをたてた。

  「ケツが腐る……」

  アザミは[[rb:杼 > ひ]](機織りの器具)を投げ出し床に倒れた。

  「ケツが腐ってたまるかいな」

  横にいた悪友でヒマ族のツリフネがぼやいた。

  ニコシビトは夫となる男に布を織って贈る習わしがある。アザミは相変わらず内仕事を怠けてきた為に、今、泣きをみていた。

  婚儀までひと月も無いのに、杼を通せど通せど、布は一向に織り上がる気配が無い。

  「皆どうやって織っとるんじゃ」

  「[[rb:同 > おんな]]しやで。緯糸通すだけや。アンタは根気が無いだけや」

  周りの女もくすくすと笑い声をあげる。

  「たまらん……はよ終わらせんと、ワシぁ家出る前に腐って死ぬわ」

  「そう思うんなら、手ぇ動かしぃや」

  ツリフネは叱咤したが、アザミは床でうなり続ける。そのうち、外でアザミを呼ぶ声があった。

  「おっ……誰ぞ用じゃ」

  ぱっと飛び上がる。

  「おや、こんな時だけ早ぇやんな」

  「人に会うのはワシの勤めじゃけぇの」

  ツリフネのぼやきを背中で受けつつ、これ幸いにとアザミ外へ躍り出た。

  アザミの婚儀が決まると、ニコシのあちこちから人が祝いに訪れた。今日もそうであると聞き、待っている者の郷を尋ねる。

  「今日はコモタチからじゃと」

  中継ぎの言葉を聞き、アザミはビクリと身を強ばらせた。久々に聞く郷の名。欠片も思い出しもしなかったのに、聞けば身が震えるようであった。

  おそるおそる室を覗くと、見えたのは少女の後ろ姿だ。軽く髪を束ねた背格好から十ばかりの子であろう。

  「……待たせたの」

  後ろから声を掛ける。少女はぱっと振り向き「あいっ」と答えた。くりくりとした大きな目、愛嬌のある笑顔。朧気な記憶が鮮明に変わる。

  「ヌシぁ、アサか」

  「あい。アザミさまちぃとも来てくれんけん、ワシ来てもうたわ」

  微笑む目にうっすらと涙が浮かぶ。後ろめたさと、懐かしさがないまぜとなり、アザミの心を満たす。

  「……よう来たの」

  「目ぇと鼻の先じゃ、アザミさま」

  たまらず胸に飛び込んだアサを、アザミは抱えた。

  「大きゅぅなったの」

  「あい……アザミさまもの」

  胸の中でアサがぐしぐしと鼻を擦る。

  「ぅ……ワシもか?」

  「あい」

  確かにアザミはあれからもすくすくと育った。並の男では敵わぬ程に逞しくなった。しかしそれはアザミにとっては何とも言えない気持ちであった。

  「あぁ、ワシアザミさまにことほぎに来たんじゃった」

  ぐすぐすと鼻を鳴らし、腕の中から這い出る。

  「このたびはおめでとうござりまする。コモタチの長に代わりお祝い申しあげまする」

  アサは手をそろえてぺこりと頭を下げる。形式ばった事は苦手だが、アザミも礼を尽くして答えた。

  「しかし長は……具合でも悪いか?」

  「んにゃ、元気じゃよ。あん時の長は歳が歳じゃけん、隠居して、今は弟筋に移ったじゃ。ワシ、アザミさまに会いたいけん、無理言って代わってもらったんじゃ」

  思えばあの時の長は、それなりに歳であったが……。

  「長には男が何人かおったじゃろ。弟っちゅうのは」

  名こそ出さなかったが、イサを含め男子が居たはずである。

  「長の子は外に出てってしまったけん」

  「イ……イサもか?」

  あれだけコモタチを離れぬと言っていた男も、そうなのだろうか。

  アザミはアサに尋ねる。アサはチラリとアザミを見た後、そっと目を伏せた。

  「イサは……兄さらが出た後、長に代わって切り盛りしとったよ。けど……この秋に死んでもうた」

  「死んだ……」

  唐突な事実がアザミの胸を刺した。

  「イサは……よう生きたと己で言うとった。思ったより生きたし、思うように生きられた言うとった」

  震える声を抑えるように、アサが胸を抑える。

  「思うように……」

  アザミの知るイサは己に対し、深く苛んでいた。イサに変わりがあったのだろうか。

  「イサは変わったよ。それまで郷の事にゃ口を出すのも遠慮するとこあったが、何でも言うようになった。郷の者だけじゃのうて、ミヤマに赴く時もあった。怖いもん知らずのイサじゃとみな驚いとった……」

  アサが目を上げる。

  「アザミさまが、コモタチの事訴えてくれた聞いての。イサは少ない命、惜しまず使おう思ったとよ。どうせ死ぬなら、何か残して死ぬと言うとったよ」

  アサの目から涙が零れた。アザミは揺れる心を抑え、アサの口元を見つめる。アサの声がイサと重なった気がした。

  「この身がもっとと恨んだ事もある。じゃが、五体満足でも出来ぬ者もおる。ワシは、ワシの出来ることした。満足じゃ……」

  アサは溢れる涙を拭かず、しかとアザミを見上げた。

  「惜しむらく……あの時想うた女を繋いでおれば。それだけが、ちと残念じゃ……けど、アザミさまはコモタチじゃのうて、ニコシに必要じゃけん、やはりワシにはもらわれんの……と、言うとった」

  アサは額を床に擦り付け、体を震わせる。

  「すんません。これから男に嫁ぐ方に言う事じゃねぇとわかっとる。ほんまにすんません……。けど、ワシ、イサが好きじゃった。アザミさまも……じゃけん、コモタチにつまらん男がおったと……そう思われんのが……すんません」

  「……アサ…」

  アザミはアサの背を抱いた。アザミも零れてしまいそうな涙を堪えた。

  「ありがとの……。ワシぁただ、嫌われたと思っちょった。ワシの生き方は男にはただ辛いもんじゃと……」

  アサは弟筋の男と目合うそうだ。イサが残した郷を良くすると言った。

  「今度はちゃんと来てくんさいよ!!」

  別れ際アサは強く言うと、朗らかに郷を後にした。

  時の流れに「もし」は無いが、あの時イサに求められていたら、今頃はどうしていただろうか……。

  室に戻ったアザミは放り投げた杼を手に取り、再び織りかけの布に緯糸を通した。

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