オオカミの歌・原典

  ニホンオオカミ―かつて本州、四国、九州に生息していた日本独自の狼。

  かつては山神とあがめられてもいたが疫病などで明治以降その数は激減し、20世紀初頭に各所で「最後の一匹」が捕らえられたと言う情報を最後に姿を消し、現代では絶滅種と言われている……。

  [newpage]

  某県某村。近年の開発の余波を受けながらもかつての自然の風景を残すこの村のバス停留所に加仁透が下り立ったのは初夏の日差しの降り注ぐ昼下がりの事だった。

  「う~ん……」

  片道一時間の乗り合いバス行で少しばかり固まった体を軽くほぐすと透はこの村の本通り ―と言っても役所や郵便局、ささやかな日用雑貨店などが並んでいるくらいなのだが ―を静かに歩き出す。

  日差しは初夏と言うには少し暑く、肌にもジンワリと汗がにじむが、それを鎮めるように優しく吹く山からの風が透の足を少しだけ助けていた。

  それでも少し疲れを感じたのかスーパーと言うには余りにも小さな店に立ち寄りお茶を一本買った。

  近くの木陰に腰掛け、さっそくお茶をのどに流し込む。

  木陰と風に加えてお茶の冷たさが透の体を静かに癒す。

  「ふぅ……」

  一息ついた時、透の視線の先に小さな獣の像を納めた小さな祠が見えた。

  一見稲荷信仰の祠にも見えるが、その中に置かれた像は少なくとも狐ではない。

  狐よりも一回りくらいは大きく、どこか力強さと気高さをたたえた獣―一言で言えば狼の像がその中にあった。

  「―」

  それを見て透は改めて自分が求めるものがこの村にある事を実感する。

  そして、静かに起き上がると店の近くにあった空き缶入れに空き缶を入れ、再び歩き出した。

  文字通りささやかな本通りを抜けるとそこには田畑が広がり、その間に家がまばらに見える。

  田に植えられた苗は少しずつ緑を増し、空を仰げばツバメの鳴き声が聞こえる。そんなのどかな光景の先に透のおじとおばの家があった。

  透が家に着いた時、おじは出かけているらしく姿が見えなかったが、おばは透の姿を見つけるや野良仕事の手を止め、

  「とおるちゃん、久しぶりだね……」

  と笑顔で透を迎えてくれた。

  土間を通り、居間に上がった所でふと見上げた神棚にも小さな狼の絵の描かれた札が奉られていた。

  それを見て静かにうなずくと透は静かに座布団の上に腰を下ろし、一息ついた。

  涼しげな風が縁側からすだれ越しに吹き、チリリンと風鈴がかわいらしい響きを立てる。

  それが数回繰り返された後、冷たい麦茶の入ったグラスを載せた盆を持ったおばが居間に入ってくる。

  透が家族と一緒におばの家を訪れたのが透が小学生の頃であり、大学生となった透が単身で訪れた事にお互い感慨に浸りながらしばし積もる話に花を咲かせていた。

  「…そう言えばおばさん、この写真に見覚えない?」

  どれだけ時間がたった後か、透は思い出したように一枚の写真を取り出す。

  最新の技術でコピーされているとは言え、その元の写真自体はかなり昔に写されたものである事を感じさせるモノクロの写真。

  その中には文字通りの獣道と言える草に覆われた道と、その真ん中に静かに後ろ向きで立ちながらこちらを振り向く一匹の犬らしき動物の姿があった。

  犬らしき、と言うのはこの写真の中の動物は犬にしては体毛が濃く、体つきも大きい。犬と言うよりもむしろ狼のそれに近い。

  「この写真…そう言えばうちのおじいさんがこんな写真を持っていたと覚えてたけど…とおるちゃんの大学に行ってたのかい?」

  メガネをかけて写真を見つめるおばが不思議そうに尋ねる。

  おばの話によるとおばの祖父は当時―明治時代末期―としては余りにも珍しい存在であるカメラを持っており、それを手に時々あちこちの風景を写していたと言う。

  透もかつてこの家を訪れた時に何枚かアルバムに収められたその写真を見てはいたが、なにぶんまだ幼かったので記憶も乏しく、何よりこの写真そのものが初めて見るものであった。

  大学のサークルで偶然その写真を見つけた透はその狼の姿、特にその瞳に引き込まれるようなものを古ぼけたモノクロの写真の中に感じ取ってしまい、その写真の出所を調べるうちにおばのいるこの村で撮影されたものだったと言う事を知った。

  「しかし、この村にも狼がいたなんてちょっと信じられないね……そりゃあ確かにこの村は代々山神様として狼をお奉りはしているけど……」

  無理も無い。「最後のニホンオオカミ」が目撃されたのはちょうど写真が撮られた前後の頃。当時を詳しく知る人は今となっては余りにも少ない。

  「でも、この写真がこの辺で撮られたのは本当なんでしょ?」

  少し声を強くしながら透は尋ねるがおばはうまく答える事ができず、結局その話はそこで途切れる事になった。

  夕方になり帰宅したおじも交えて談笑が進んだが、結局写真の事については詳しい事はわからずじまいに終わった。

  「……」

  すでに夜の帳が下りて数刻が経つ。

  風呂を頂き、用意された部屋で荷物の整理をしていた透は色々な思いにかられていた。

  初めてあの写真を見た時の不思議な感慨。まるで刺すような、それでいて求めるようなあの視線……本当に偶然なのだろうけどそう言い切るにはどこか何かが足りない。

  その答えを求めて透はその写真が写されたというこの村にやってきたが、その手がかりは余りにも少なく、もしかするとその道自体すでに無くなっているのかも知れない。

  もちろん透もこの写真の当時はともかく今現在この山にニホンオオカミがいると言う事自体信じてはいないが、それでも“何か”を知りたい。

  その思いは今も消える事は無い。

  透はそう思いながらナップサックを部屋の隅に置き、灯りを消すのが早いか静かに布団の中に身を潜らせた。

  静かな寝息を立てる透の姿を床の間に置かれた祭礼用の狼を模した面頬だけが見つめていた。

  [newpage]

  「おやとおるちゃん、もう行っちゃうのかい?」

  翌朝早く、朝食を終えて間もない土間でナップサックを背負って出発の準備をしている透を見ておばは少し悲しそうな顔をする。

  「ううん、今日はちょっと山の風景を撮ろうと思って。夕方には帰るから」

  そう言っておばをなだめながら透は家を後にする。

  目指すは山の中、少しでもあの写真の場所に近づきたい。その一心で透は山道へと入ってゆく。

  朝のひんやりした空気も少しずつ暖められ、今日も昨日と同じくらいの暑さを予感させている中、透は山道を進んでいる。

  このあたりも少しずつ開発が進んでいるらしく大きな山道はすでに舗装が施されているが、その周辺の小さな脇道はその手は及ばず昔ながらの山道、獣道の空気を見せている。

  しかし、そのどれが求めている場所につながるのか、ましてその場所が今もあるのか。

  その答えを知る手がかりのないまま透は山道を歩く。

  一通り歩いた所で透は道端に腰を下ろし、背負っていたナップサックを下ろすとその中身を取り出す。

  一つは水筒、そしてもう一つは一台のフィルム式カメラだった。

  デジタルカメラ全盛の現代、インスタントではない普通のフィルム式カメラを所持し、今も使っていると言うのは珍しい事なのだが「本当の意味で“写真”を撮るのならこっちの方がいい」と言うこだわりのせいか、透はこうしてフィルム式カメラを持ち、大学でも自分で写真を焼いているのである。

  「……。」

  水筒の中のお茶をかすかに口に含んだあと、透はカメラを抱えて周りを見回す。あたかもそうする事で求める場所への入り口を突き止めようとするかのように。

  そうしながらしばし歩を進めていた透の覗いていたファインダーがある場所を捉える。

  今まで見てきたのと同じなんでもない脇道。

  ただほんの少し草が生い茂っているだけの小さな道だが、透のファインダーはその一点に集中していた。

  「あそこだ……」

  透はそうつぶやくとカメラから手を離す。かけ紐が軽く引き、カメラがかすかに揺れる。

  そして透はそこから脇道へと入っていった。

  もちろん確信と言えるものはないし、むしろ完全な行き当たりばったりの行動である。

  それどころか一つ間違えれば遭難する可能性もある。それでも透は何かを感じながら、まるで導かれるように草むらをかき分け、奥へと進んでいった。

  どれだけ進んだのだろうか。透の足がふと止まった。

  静かに木漏れ日が射し、木々を風が吹きぬける。

  そんな光景の中、その場所はあった。

  記憶の中にある、と言うより何度も写真越しに見たその場所。

  「あった……本当にあった……」

  透の心は一杯になる。ついに求める場所にたどり着けた。

  遥か昔、当たり前にいたであろうニホンオオカミの一頭がフィルムに納められた場所。ただそれだけの場所。

  その場所を求めて透はここまで来たのだ。胸が一杯になり、ほんの少し目頭が熱くなる。

  その興奮のまま透はカメラを改めて構え直し、レンズを向ける。かつてそこにいたニホンオオカミの“記憶”ごとフイルムに刻むように何度もシャッターを切る。

  時々吹く風の音とそれになびく草や枝の音と一つになるかのようにシャッター音が響いていた。

  フイルムが一本同じ場所の写真で埋まった所で透はようやく立ち上がり、深呼吸をしながら高揚を鎮めようとする。

  しかし、高まった想いは簡単には鎮まらない。

  それどころかより強い感情が透の中に芽生えてゆく。

  あのオオカミは何を想い、あそこにいたのか。

  伝え聞く話ではニホンオオカミは自分のテリトリーに入った人間の後をついてくる習性があったそうだが、ただそれだけなのか、それとも別の思いがあったのか……。

  あの写真を初めて見た日から、そして昨晩透はそんな思いを胸に抱いていた。

  それを少しでも知りたい。近づきたい。色々な思考が交錯する。

  そして、透は思考の海から大きく飛び出した。

  「よしっ…やるか!」

  [newpage]

  そう言うや透はナップサックやカメラを下ろすと帽子や手袋を剥ぎ取るように外し、その脇に放り投げる。

  ハイカットの靴と靴下に始まり、ジャケットを、薄手のトレーナーを、そしてその下の下着を引き剥がすように脱ぎ捨てる。

  さらに透はズボンをその中のパンツごと腰から引き抜くと、それも脱ぎ捨てる。

  「ふぅ……はぁ……」

  森の中で全てをあらわにした開放感と高揚感に身を任せながら透は体を伸ばす。

  ショートカットの髪が風になびき、胸元では柔らかなふくらみがかすかに震え、細くてしなやかな肢体の鼓動をより強く表す。

  それはまさに透が人間の女性と言う皮を脱ぎ捨て、あたかも風か木、あるいは森の精霊に生まれ変わったかのような光景であった。

  一通り感慨にふけっていた透だったが、それを振り払うようにナップサックの場所まで行くと再びその中身を改め、そこからあるものを出す。それは小型の三脚だった。

  全裸の肢体を弾ませながら透はカメラに別のフイルムを装填し、続いて三脚と連結させる。

  その動きは童話に出てくる靴つくりの小人達の様にも見える。

  そしてファインダーを覗いて場所を確かめると透はそのままその先に立ち、背中を向けて顔だけをカメラに向ける。

  タイマーセットされたシャッターがかすかな音を立てる。

  次のシャッターが回るまでの間に透はそのままの姿勢で地面にひざを付き、再度カメラを見る。

  その瞬間、シャッターの音が鳴った。

  写真好きとは言え自分自身の裸を、しかも人里離れた山の中で撮ると言う無茶な行為に走った理由―それはやはり少しでもあのオオカミに近付きたかったのかも知れない。

  あのオオカミと同じく自然の姿―裸になってあの場所に立ち、レンズを向けられる事であのオオカミが何を思っていたのか解るかも知れないと言うかなり支離滅裂な理屈ではあったが、少なくとも透自身には真剣な行為であった。

  「だめ……まだ……足りない……」

  しかし、透の心はまだ納得してはいなかった。確かに裸になり被写体にはなった。

  森の中と言う事もあり高揚感、そして快感は高まっている。しかし、それだけではだめなのだ。

  そう、今のままでは「ただ人間の女性が裸になって写真に写っている」だけなのである。

  しかし、いくらなんでも透がオオカミになって写真に写るなんて事は普通に考えれば不可能な話である。

  もちろん透自身もそれは承知していた。だから……。

  透は三度ナップサックから何かを取り出す。それは面―昨晩寝室の床の間に飾ってあった祭礼用の面頬だった。

  おじやおばから聞いた話ではこれを被り、専用の被り毛を被って狼神に扮した舞手が祭礼で舞うとの事だったが、透にとっては今現在もっとも可能な「人間である自分が狼に近づける為の手段」であった。

  面頬を手に取りしばし見つめ続けた後、おもむろにそれを顔に押し当てるように被せるとそのまま紐を首筋の辺りで縛る。

  「はぁ……これなら……」

  かすかに開いている面頬の口元の奥でかわいらしい唇が吐息を漏らす。

  マズルは小さいものの口元は狼、それ以外は全裸の人間の女性と言うどこか異形の姿をした獣、それが今の透だった。

  今ならできる。限りなく狼に近づいた今の姿なら……。

  まさに狼が獲物に飛び掛るがごとく透はカメラに飛びつくとシャッターのタイマーを合わせる。

  そしてそのままカメラの前に後ろ向きに立つとさっきと同じように最初は立ち、次は四つんばいになってレンズに顔を向ける。

  シャッター音が鳴るたびにカメラは「人間の女性の肉体を持つ狼」をフイルムに刻み、透の肌にも赤みと汗が、心には狼のごとき野生の高揚が刻まれてゆく。

  そして、最後のシャッターが切られた時、

  「うぉ~んっ!」

  透はあたかも本当の狼の様に吼えた。

  「はぁ……はぁ……少しは…近づけたかな……」

  それからしばらく透は火照った体を醒ますように全身で大きく息を繰り返しゆっくり立ち上がる。

  そして、カメラの方ではなくカメラが向いている先、森の奥へとふらふらと歩いてゆく。

  その視界が揺らいでいたのはまだ残る高まりが見せた幻なのか、それともその先自体が揺らいでいるのか……。

  まさに「人の姿をした美しき獣」のごとく透は木々をすり抜け、草むらをかき分けて進む。今の彼女を山の獣達が見ても自分達の同類としか思わないかも知れないほどに。

  いまだ呼吸は荒く、肌もほんのり赤い。

  今の彼女には風でさえ鎮める事は適わないだろう。

  より強く自分を鎮めさせるものを求めて透は奥へと進む。

  ふと透の耳、そして鼻が何かを感じた。

  風になびく音、そしてその匂い…それに導かれるように透はその先に向かう。

  視界が広がった時、それは見えた。

  そこにあったのは小さな泉…青々とした澄んだ水をたたえた泉だった。

  静々と歩み寄り、岸まで近づくと静かに跪き、両手で水をすくうと口に注ぐ。面頬の隙間から冷たい水が口に流れ込む。

  「はぁ……おいしい……」

  大きく安堵の吐息を漏らすと、透は立ち上がり、静かに泉に身を沈める。

  泉の持つ冷たくも清冽な気が透の火照りを冷ましてゆく。しばし身を任せたあと、透は静かに泳ぎだす。

  全裸に狼の面頬と言う奇特ないでたちをしてもなおその姿は美しかった。

  どれだけ泳いだであろう。透は入った時と同じように静かに岸に上がると、そのままバタリとうつむせに倒れこむ。

  その口元からはかすかな寝息が聞こえる。歩き疲れた事、今の姿になった時の高まり、そして先ほどの泳ぎ疲れが一気に噴出したのだろう。

  透はそのまま眠り続けた。木漏れ日と風を掛け布団代わりに、草むらを敷布団代わりに。

  中天に掲げられた太陽が肌を焼いたかと思えば突然振り出した夕立が肌を打ち付ける。

  泥や草に巻かれながらも透は眠り続ける。

  [newpage]

  透が目を覚ましたのは日もすでに山に近づいていた頃だった。

  「ん……わたし……いつの間に寝ちゃったんだろ……もう帰らないと……帰る……どこへ……?」

  まだ寝起きで朦朧としている頭を振り絞り両手と両ひざをつきながら起き上がる。

  そんな時、目の前に誰かの影が入る。おぼろげではあるが二本足で立っているからおそらくは人間なのだろう。

  「だれ……?」

  顔を上げる透だが、それよりも先に、

  「お、狼だーっ!」

  その人物は大声を上げると走り去る。それに驚いてしまった透も逆の方向に走り出す。

  木々を掻き分け、草むらを飛び越えて走る。

  「はぁ……はぁ……なんだか森が長い…それに体がなんだか軽い……」

  透は不思議な違和感を感じていた。

  無理も無い。透ががむしゃらに駆けていった道のりの中には本来なら切り開かれ舗装された道があるはずの場所もあったはずなのだ。

  それに、もし先ほど出会った人影を見る透の目がはっきりしていればその衣装が少なくとも現代の人間の衣服ではない事はわかったはずである。

  そして透自身ショートカットにしていた髪だけでなく全身の毛が少し長くなっていた事、体格が少したくましくなっていた事に気づいてはいない。

  さらに重ねるなら面頬を止めていた紐はすでにほどけていたが、いつの間に萎縮したのかそれでも透の顔にピッタリと張り付いている事にも気づいてはいない。

  それほど今の透は混乱していたのだ。

  そこに……。

  “おい、こっちだ!”

  と呼び止める声が耳に入る。

  「えっ!」

  その声にハッと我に返った透は声の先に飛び込んだ。

  「はぁ……はぁ……」

  何度目かの荒い呼吸を沈めながら透は声の主と思われる相手のにおいを感じる。

  “やれやれ……何あわててたのかわからないけど、せっかちな奴もいるものだな”

  その相手は一頭の狼だった。その姿になぜか透は安堵感を覚える。

  「ありがとう、と言うべきかしら……でも、せっかちとは失礼ね」

  礼を言いながらも少し膨れてしまう。

  “おれ達の中―まあ、だいぶ数は減ったけど、それでも狩りでもないのにそんなにあわてて森の中を走り回る奴なんて早々いないぜ?せっかちでなくてなんなんだよ”

  あっさりと言い返されてしまいさらにムッとなる透だったが、さすがに言い返せなくなる。

  そんな時、透のおなかが軽く鳴った。

  「……」

  実際山の中に入ってから何も食べてはいない。腹が鳴るのも当然だろう。

  “やれやれ、何も食わないで走り回る事がせっかちなんだよ”

  顔を赤くしてうずくまる透に対して狼は軽く皮肉を叩きながらも、近くにあったものを加えて放り投げる。

  「うっ…なにこれ……」

  思わず口元を押さえてしまう。

  それは獣の肉だった。もちろん調理などされてはいない。

  “まあ食えよ。腹減ってんだろ?”

  「な、何言ってるのよ、こんなの食べられる……」

  訳ないと言いかけた所で透のおなかがまた鳴った。たまらない空腹感、そして同時に来る食欲を誘う臭い……。

  いつの間にか透はその肉をつかみ、必死でむさぼっていた。面頬とその下の口、両方が肉を租借し、透のすきっ腹に送り込む。

  その感覚は今まで食べた事のない至上の美味にも思えた。

  「ふぅ……ごちそうさま……」

  一息ついた所で透は狼が何も食べていないらしい事に気が付いた。どうやら自分の獲物を透に差し出したらしい。

  透はくすっと笑いながらもまだ残っている肉を渡そうとするが、狼はフイと横を向く。

  “お、おれはさっき食ったからいいんだ…それよりもお前、新顔だな?おれでよかったら一緒に来ないか?”

  突然の誘いに透は驚くが、その姿に奇妙な好感を抱いた透はうんとうなずく。

  “そ、そうか……あ、おれはルフウってんだ。お前は?”

  狼―ルフウに尋ねられて透は一瞬脳裏に何か引っかかるものを感じたが、そこから浮かび上がった自分の名前を告げる。

  「とおる……トオルよ」

  “トールか……いい名前だな。よろしくな、トール”

  「ええ」

  [newpage]

  こうして透はルフウとともに山の中で暮らし始めた。

  木々を渡り、岩を乗り越え、時にはがけをも越えたりする日々。

  脚だけではなく両腕も巧みに使いながら透はルフウとともに歩いていった。

  日々の糧についても始めのうちはルフウが狩った獲物をもらっているだけだったが、ルフウに教えられながら、そして獲物を食べるうちに自らに湧き上がってきた激しい欲求と衝動に導かれるうちに自らの手で獲物を捕らえ、その顎で獲物をしとめられるようになった。

  その時にしとめた獲物はルフウに渡した。

  「あの時のお礼よ」

  と笑顔で言う透に対してルフウは、

  “あの時は気まぐれだ。自分の獲物は自分で食べろ”

  とそっけなく答えながらもほんの一かけらだけ口にしていた。

  初めて会った時から本能的に感じていたのだろうが、透もルフウも互いを強く意識するようになっていた。

  ただ暮らしを共にするだけの間からともに助け合い、支え合い、そして惹かれ合う関係に。

  そしてその変化は透の肉体にも現れていた。

  全身からうすうす生えていた体毛は少しずつ全身に広がり、野山を駆けるうちに両手と両足をついて文字通り獣の様に歩くのが当たり前になっていた。

  暮らしの中で全身の筋肉が発達したのかも知れないが、両腕の間に見え隠れしていた一対のふくらみも筋肉の中に飲み込まれつつあった。

  それだけでなく、手足の爪は鋭くなり、耳もわずかずつだがのびているように見える。

  お尻の方を見ると何かこぶのようなものが見え隠れするようにもなった。

  遠目にその姿を見た者、特に人間が今の透を見て彼女が人間であると言う事を理解する事はかなり困難だろう。

  考えてみればルフウに呼び止められて反応していた時点で透の中の何かが変わっていた。

  だからこそ透は人の世界ではなくルフウとともに狼の世界に「戻る」選択を当たり前のように受け入れていたのかも知れない。

  今の透は体の形こそまだ人間の名残をしてはいるが、その内容はほとんど狼のそれに近い。そして心の中も……。

  そして最大の転機が訪れたのはある冬の日の事だった。

  珍しく狩りに失敗し、猪に追われるうちにルフウは川の中に落ちてしまった。

  「ルフウ!」

  そう叫ぶや透は流れこそ急ではないが冷たい川の中に飛び込んだ。

  たくましく、しなやかになった筋肉と毛皮のおかげで冷たさは多少は和らぐも決して泳ぎやすいと言う訳ではない。

  犬掻きの様な、人の泳ぎ方の様なわけの判らない泳ぎ方をしながらも透は必死でルフウを追う。

  「ルフウ……待ってて……今助けるから……」

  何度も空振りしながらも透はついにルフウを捕まえると自分の背中にルフウを担ぐ様に必死で岸に近づく。

  二重に増えた「命の重み」を背負いながら必死で透は川岸にたどり着いた。

  「……冷たい……このままじゃルフウが……」

  ルフウを背負いながら透は草むらをさまよう。冬の寒さと水の冷たさ、そしてルフウの重さが透の体を容赦なく責める。

  それでも透は休む事も空腹を満たす事もせずただひたすら歩き続ける。

  もしも、このまま歩き続けていたら間違いなく透も力尽きていたであろう。なればこそ身を休められそうな洞穴を見つけられたのはまさに奇跡であった。

  たどり着くや否やルフウを地面に寝かせると、そこで改めて透は全身を震わせまだ残っていたしずくを払う。

  そして……。

  「ルフウ……」

  透は自分の体をルフウの上に覆い被せる。

  少しでも自分の体温をルフウに与えるかのように。

  長いような、それでいて短いような時が過ぎる。

  “う、うう……”

  ルフウが意識を取り戻した時、全身に温かい重みを感じた。

  “トール?”

  それは自分を助けた事への安堵か、自分の上で静かに安らいでいる最愛の存在の重さであった。

  ルフウの目覚めに呼応するかのように透もうっすらと目を開ける。

  「ルフウ……よかった……」

  “まったく、無茶しやがって……”

  心からの安堵をもらす透に対し、ルフウは少しきつい口調ながら礼を言った。

  それでも透の心はどんどん熱く高まってゆく。

  それはあの時、写真の場所に立った時以来のものだろうか。

  「……だって……わたし、ルフウが好きだもの、ルフウがいなくなるのいやだもの、ルフウと一緒にいたいもの……!」

  “ト、トール!?”

  外はすでに夜のしじまに包まれていた。

  ただ風のみがススキの生い茂る野原を駆ける。

  そんな中……。

  「うぉーんっ!」

  互いの心の誓いをかわした狼の咆哮がこだました。

  その後、洞穴から一頭の狼が現れる。

  そして、その狼に導かれる様にもう一頭の狼が現れる。

  先に現れた狼に比べると一回り小さいが、その見事な毛並みや背中に曲がった尻尾、そして頭部に短くもピンと立つ耳とマズルは間違いなくそれが狼である事を示している。

  その小さな狼は大きな狼の顔に自分の顔を擦り付け、改めて愛を示す。同じ様に大きな狼も自分の体を小さな狼に擦り寄らせる。

  そして二頭の狼はススキに見送られ、洞穴を後にする。

  その中に小さなメスの狼―トールがかつて透と言う人間の女性だった名残であった面頬のみを残して……。

  ルフウとトールは困難も無くはなかったが、互いに助け合いながら日々を生き抜いていた。

  特にトールは自分の中にうっすらと積もっていた違和感が消えた事により、より自然に狼としての生活に溶け込んでいた。

  そんな中、彼女に更なる変化が訪れた。それは……。

  “お、おれ達の……?”

  “ふふ……そう……わたしとルフウの……”

  自分の中に愛する者と共につむぎ上げた命が宿っている。それだけでトールは嬉しかった。

  もちろんルフウも喜びを隠せない。

  二頭は互いに祝福しあいながら新たな命を守り、育てていく事を誓い合った。

  そして二頭は始めて結ばれた洞穴とはまた違うススキ野原の洞穴に居を構えると、新たな生活を始めた。

  ルフウは積極的にテリトリー―トールと新たな命を守りながら糧を狩り、トールも少しずつ身重になる体をいといながらもそれを支えていた。しかし……。

  [newpage]

  その日、ルフウはいつになっても戻らなかった。

  “ルフウ、遅いな……狩りが長引いているのかな……”

  そう思いながらもルフウを待ち続けていたトールだったが、ふと何かを感じたのか、重めの体を支えながらも洞穴を出、森の中に飛び込んでゆく。

  どれだけ歩いたのだろうか、その足は人里に向かっていた。

  今のトールの体では万一人に見つかった時逃げおおせられるかわからない。

  それでもルフウの気配に導かれるようにトールは駆けていった。

  ざわざわと木々が不安げな音を立てている。

  “ルフウ……”

  胸騒ぎを覚えながらもトールは人里まで降りていく。

  そんな中、かすかに感じたルフウの匂いを感じたトールはそこに向かおうとしたが、別の匂いがその足を止める。

  “!”

  おののきながらも身を隠す。

  そこにあったのはランタンを手に狩りの装束に身を固めた人間達、そしてその網にかかった一頭の狼―ルフウの姿だった。

  早くルフウを助け出したい、しかし今の体ではどうにもできない。

  そんな葛藤の中、ただルフウを見つめる事しかできない悔しさでトールは身を隠すのみだった。

  そんな時、ふと上げた目と一瞬だけ―そう感じただけかも知れないが―ルフウと視線が合った。

  “ルフウ……”

  トールは悲しげにその目を見つめる。

  “わりい、ドジふんじまった……でもこいつはおれの失敗だ。お前が悔やむ事も誰も憎む事もないぜ……”

  ルフウの目はそう言っているように見えた。

  “でも……。”

  こんな体でなければあの時の様に人間達の中に飛び込みたい、あの流れを引き裂いてルフウを助けたい。そんな想いでいっぱいだった。

  一つ間違えれば人間達への憎しみのみに支配されるギリギリの場所に今のトールはいたのだ。

  “いいか……誰かを憎んでいる暇があったらお前の中にいる命を守れ。おれとお前が育てた命を……そしてお前も生きろ……”

  そう言いながらルフウは人の流れの中に消えていった。トールは黙ってそれを見送る事しかできなかった。

  失意と言う更なる加重を背負いながらもトールは洞穴の中に戻り、身を横たえる。

  愛する人を守れなかった悲しさ、そしてそれを奪った人間たちへの憎しみがトールの心を侵そうとする。

  しかし……。

  ふとトールのおなかの中で何かが動いた。

  命の息吹。

  新たに生まれようとする命の鼓動がトールを我に返した。

  “そう……そうよね……ルフウだってそう言ってたよね……”

  今まで積もりかかっていた悲しみと憎しみは流れ去り、替わりに慈母のごとき優しさと守り抜こうとする意志が芽生える。

  それに合わせるかのようにトールの中で新たな命が目覚めの時を迎えようとしていた。

  “うっ、き、来た……こんな時に……”

  痛い。苦しい。気持ち悪い。

  しかし、その中では新たな命、ルフウが自分の中に残した新たな命が目覚めようとしている。

  “会いたい……ルフウの……わたしの命……会いたい……!”

  体をそらし、しならせながらもトールは必死であがく。

  誰かを憎み、傷つける為ではなく、新たな命を生み出し、活かす為にあがく。

  彼女の体がしなるたび、彼女自身と新たな命の波動が響きあう。

  “あ、ああ……ル、ルフウ……ううっ……苦しい……”

  誰の助けも借りられない暗闇の中、トールはルフウの思いを支えにしながら下腹部に力を込め、命を搾り出す。

  そして―。

  “ああ……会えた……”

  波動が極限に達しはじけた瞬間、トールの心に満ち足りたものがみなぎる。

  いくつもの幼い命の産声を聞かぬとも彼女は自分達の生み出した命が全て無事この世に生を受けた事を確信していた。

  そしてゆるやかに身を起こし、産声を上げる新たな命を祝福するかのようにその体を優しくなめ、そして乳を与える。

  その実感を確かめながらトールは改めてこの命を育て、守る事を誓うのであった。

  それからトールの新しい戦いが始まった。

  子供達は順調に育ってはいるが、まだ目を開けてはいない。

  しかし、子供達と自分に栄養を与える為にもトールは可能な限り外に出て糧を求めた。

  それは本来の狼の習性からはかけ離れていたのかも知れないが、トールが母として子供達にできる最善の選択だったのだろう。

  そうこうしている間に子供達の周りの世界は少しずつ広がってゆく。

  トールも乳や噛み砕いた固形食を与えながら子供達にルフウから学んだ事を子供達に教えてゆく。

  群れの中で生きる術、狩りの方法、そして一つの生き物として森の中である心を……。

  そうしながら四季折々の中でトールと子供達は人知れず生き続けた。

  月日は流れ、子供達もついに独り立ちする日が来た。

  幸いトールの子供たちは誰一人欠ける事無く巣立ちの日を迎える事ができた。

  早く巣立ちをしたくてうずうずする子供、まだ少し名残惜しそうにトールの近くを回る子供。

  みなそれぞれに反応は違ったが、みなそれぞれに母であるトールへの思いと野生に生きるものとしての強い自覚に満ちていた。

  そしてトールに送られて子供達はおのおの森の中に消えてゆく。

  これからはそれぞれが新たな命をはぐくむ為に生きてゆくのだ。

  別れと壮行の咆哮はいつまでも森にこだまし、トールは最後の子供の姿が消えるまで見送り続けていた。

  そして静かに巣穴に戻ろうとした時、その足がよろりとよろける。

  “えっ?”

  そして、そのまま地面に倒れて体が動かなくなる。

  “そうか……もう……行ってもいいんだ……”

  トールは体が少しずつ動かなくなってゆく恐怖よりも自分がなすべき事を遂げる事ができた充実感をより強く感じていた。

  “ルフウ……わたしも……いくわ……”

  そしてそのままトールは静かに目を閉じる。

  その姿はまさに眠っているかのようであった。

  その体を枯葉が優しく包み込む。

  かと思えば秋雨が激しく降り、その体を少しずつ土に埋もれさせて行く。

  それを繰り返すうちにそこにかつてトールというメスの狼がいたと言う形跡そのものが土―自然の流れの中へと埋もれていった。

  [newpage]

  長い月日が流れたようで、それでいてほんの一時しか時間が流れていないような空間。そこにまた雨が降る。

  激しい通り雨の中、地面がふとボコリと盛り上がる。

  あたかも植物の芽生えのごとく地面が割れ、中から泥にまみれた何者かが現れる。

  その何者かは静かに身を起こしながら前で重ねていた葉のような、腕のようなものを交差しながらゆっくりと上に上げる。

  その体に雨はさらに降り注ぎ、泥を全て洗い流す。

  「ああ……はあ……」

  まるでシャワーを浴びるようにその物体は両腕を広げ、頭をそらしながら伸びをする。

  腕の間に実る一対の柔らかなふくらみが雨にはじけて軽く震えている。

  そして雨は上がり、雲間から光が差し込みその物体を照らす。

  「ふぅ……」

  物体―透はずぶぬれの、そして泉で水浴びをした直後の変わる事無き裸身をそのままにしばし放心したまま座り込んでいる。

  「わたし……どうしてたの……確か裸になってお面をつけて泳いでいたまでは覚えているけど……」

  そう言いながらふと口元に手をやるとそこには生身の唇の感触があるのみ。

  被っていた面頬は影も形も消えている。

  「えっ?どうして?まさかあれって……?」

  少しずつ眠っていた間の記憶がおぼろげに蘇る。

  面頬をつけて森をさまよう内に本物の狼になりオスの狼と共に暮らした記憶……いや、夢だろうか。

  わからない。どうにもわからない。

  それを振り払うように透はまだけだるさの残る体を立ち上げると体についていた泥を払い、もと来た道を歩き出す。

  幸い通り雨はカメラのあった場所には当たらなかったらしく、カメラや服は無事だった。

  そそくさと服を身につけカメラをしまうと透は少し名残惜しそうにそこを後にし、舗装された本道に戻る。

  「おばさん、ただいま……」

  おばの家に戻ったのはすでに夕刻を過ぎていた。

  「あ、とおるちゃんお帰り、遅かったね。いい写真は取れたかい?」

  心配そうにしていたおばだったがその反応、そして土間にかかっていたカレンダーを見ると出かけた日そのままの日付である。

  「やっぱり夢……?」

  そうつぶやきながらも透は面頬を勝手に持ち出してなくした事を謝ろうとする。しかし、

  「面頬?うちにはそんなものなかったよ?」

  とあっさり返される。

  ちょうど帰ってきたおじに尋ねても答えは同じだった。

  「???」

  もしあの夢が本当なら自分が完全に狼になったあそこに置いて来た事は言うまでもない。

  しかし、その場所は色々な意味ではるか遠いかなたである。

  “まさか、ほんとうにわたし……?”

  透はそう思いながら頭を抱える。

  「あ、そう言えばとおるちゃん、今日戸棚を整理してたらこんな写真を見つけて…」

  そんな中、おばが一枚の写真を透に見せる。

  「!」

  それを見た透の目がなぜか大きく見開かれ、同時に身体の奥がきゅんと震える。

  それは持っていた写真と同じカメラで写されていたであろう古い写真であった。

  あの写真とはまた違う獣道、そこで群れるように歩く狼の群れ。

  まだ小さい子供狼の群れに慕われるように歩く大きな狼……その姿を見た時、透の中で何かが動いた。

  「わたしだ……そしてあの子達……」

  「とおるちゃん、どうしたんだい?」

  おばが心配そうに覗き込むが、透は何とか笑ってごまかした。

  「……しかし、この辺でもオオカミを見たなんて話をちらほら聞くけど、本当なのかね…」

  おじがふと思い出したようにつぶやく。

  「まあ、この山が代々オオカミをお奉りしていた事もあるし、不思議ではないかも知れないけどね……」

  そう返すおば。

  そのやり取りを聞いて透の中で少しずつ何かが組みあがってゆく。

  「……間違いない、わたしは確かにあの山でオオカミになった。そして……」

  そして、はじかれる様に部屋に戻るとナップサックを下ろして中から写真を取り出す。

  「あ……ルフウ……それに……」

  あの獣道でかつて写されたオオカミの写真。

  透にはそれがあの世界で愛した存在に見えてならなかった。

  それだけではない。

  「それに……わたし……」

  一体どう言うからくりか、その写真にもいつの間にかそのニホンオオカミの傍らに寄り添うもう一頭の狼の姿が入っていたのだ。

  あの写真と言いこの写真と言い、いつ写されたのかは定かではないが、この 写真が自分達を写したものである事は間違いない。

  熱いものを感じ、透はその写真を胸に沿わせて強く抱きしめる。

  そうなるといつの間にか流れていたニホンオオカミの目撃談についても理由はわかる。

  「間違いない、あの子達だ……あの子達が生き残ってくれてたんだ……」

  自分の「子孫」があの山で今も暮らしている。

  そう思うと透はいても立ってもたまらず、その場で服を脱ぎ捨てて山に向かって叫び、そのまま駆け出したい衝動に駆られてしまったが、幸か不幸かおばが夕食の準備ができた事を告げに来た事で空振りに終わり、少し赤くなった顔をおばに見せる事になった。

  [newpage]

  結局、何ゆえ透が時空を超えてニホンオオカミとなって生き、そして再び人の姿で現代に戻れたのか。

  そもそもそれが現実だったのかの真相は定かではない。

  あの写真のオオカミが何を思っていたのか、それは透自身にもわからない事かも知れない。

  それに、あれ以降山道を歩いてもあの場所への入り口は見つからず、「子孫」達に出会う事は無かった。

  ただ、あの出来事の実感と記憶は確かに透の心の中に刻まれている事は確かであり、今もふとした拍子であの山に行き、「トール」として野山を駆け巡りたい衝動に駆られる事があるらしい。

  そして何より彼女の部屋の秘密の場所に隠されたアルバムの中には二頭の狼と親子の狼達を写した写真、そして彼女にしては珍しくデジタルで合成した写真―同じポーズで振り向きながら森の奥に歩もうとする裸の「透」と「トール」の写真が収められている。

  いつか“自分”の子孫達がともに暮らせる日が来ると言う甘いかも知れない思いと共に……。

  了