Step 2〈おもしろくいこうよ〉

  [chapter:11月29日 土曜日]

  次にセンパイと会ったのは前回より一週間後の、十一月最後の土曜日だった。

  名前を知ったのもこの時で、センパイの苗字が「シロミ」だということがわかった。

  センパイはなぜか苗字しか名乗らず、こちらも倣って名字しかいえなかった。下の名前はなんていうんですかって聞いたら、

  「また次会った機会に教え合うことにしないかい?」

  教えてもらえるとばかり思い込んでいたおれは単純にびっくりして、「へ」と声が出た。

  「知りたいよね。ボクもそうだよ」

  じゃあなんで。もっともな意見が文字となって、顔に浮き出たようだった。

  まだまだ謎多き男は表情を一定に保ち、その理由を告げる。

  「会うたびにすこしずつわかっていくなんて、ボクらならではの歩み寄り方だと思わない?」

  うーむ。

  即否定することはなんだか難しくて、「そうかもですけど、普通そんなことはしませんよ」と、やんわり変であることを伝えてしまう。

  「普通じゃおもしろくないよ。どうせなら、おもしろくいこうよ」

  「おもしろいんですか、それは」

  相手は年上だというのに、つい言葉に噛みついてしまう。おれが犬だからではなく、たぶんこの人と接するすべての人はおれみたいになるのだ。

  しかし噛みついていけるのは、それがたやすく許される独特のオーラが備わっているからでもあった。

  あちらに振り回されてはこちらが応戦していく。そういう力関係なるものが、既にできあがっていた。

  「まさか、偽名を考えてくるつもりじゃないですよね」

  「まさか」

  まさかの「まさか返し」をくらい、まさしくへにょっと力が抜けかけた。

  「やってもいいけどね。偽名大喜利。スケッチブックいっぱいにおもしろい名前考えてくるの。あれ? クロサキくん、これ……けっこうアリというか、最高じゃない?」

  「いや、おれはやらないっす。早く本名教えてください」

  「来週のお楽しみ〜。早く来週にならないかなあ」

  そうして結局、名前の件は持ち越しにされてしまった。

  不本意ではあるものの、一理あるな。とは思った。悔しいけど、ちょっとだけ。本当にちょびっとだけ。

  霞みたいに掴みどころのない人を探り探りで知っていくのは、確かにおもしろそうだと思ったのだ。名前大喜利はしないけど。

  それに、知りたいことは一度に思い浮かぶものでもなく、既にもらった情報から枝分かれしていくものでもある。

  早朝の閑散とした電車内。おれは他に訊きたかったことを率直に訊いた。

  「そういや学校休んでたんですか? 一週間も見なかったから、病気にでもなったのかと思いましたけど」

  「実はね、ボクは風邪をひいたことないのが取り柄で、ことあるごとにウリにしているんだ。だから、もし仮にそうだとすると人生における最大不名誉の一週間を過ごしたことになるね」

  中背のシロクマ(背はおれより頭ひとつ分高いんだけど……)は相変わらずわかりづらい言い回しをして困らせてくる。

  「ちゃんと来てたってことですか?」

  「もちろん。キミの方こそ、ボクに恐れをなして時間をずらしてしまったのかと心配していたんだから」

  「おれ電車の時間変えてないっすけど……」

  「ん? ああそうか。変えたのはボクだっけ。最近流行りの時差出勤ってやつ。アレを取り入れたんだった。時間に囚われるのを良しとしないボクにぴったりだ」

  「……もしかしてですけど、それって遅刻の言い訳ですか?」

  「おっ? クロサキくん、なかなかスルドいこといってくるねえ」

  シロミ先輩のアホ毛が揺れて、指摘が当たっていることをつぶさに物語る。よっし、反撃大成功だ。おれは噛みつきの追撃を止めない。

  「やっぱり。遅刻してたんすね」

  「オトナたちはそう定義したがるね」

  「ぷっ、なかなか頑固」

  シロミ先輩が屁理屈な子どもっぽい一面を見せてくるから、たまらなくおかしくなって吹きだしてしまった。一度笑うと、警戒心は解けはじめた氷のように、不可逆的に和らいでいく。

  「思うに、遅刻なんてものは小さな箱の内側の決まりでしかない。もっと大きな箱の世界、この国の法律には遅刻してはならないなんて文言はないのだから、もっと寛容になればいいのに、ってのがボクの主張。ちゃんと授業開始には間に合ってたしね」

  やっぱり理屈っぽいけど、「なるほど」と思わされるものがあった。

  暗黙のうちに、一律に従うことが是とされている常識を俯瞰してみる。その考えはおれにはなかったから、新しい「生き様」みたいなものを見せられた気がして、

  「それ、最強の理論ですね」

  思ったことを伝えた。センパイは「そうだろう?」と目を大きくした。

  「まあ、小さな箱の内とはいえ、違反は違反なんだけどね」

  大きな黒い鼻をコリッと掻いて、認めるべきことは認めた。

  「このところ寝不足気味でさ。ボク個人の事情なんかお構いなしに朝は来てしまう。やっぱり時間は平等なんだなあ」

  寝不足? 受験勉強だろうか。

  もうあと二ヶ月もすれば試験本番は終わってるらしいから、きっと今が追い込みどきなんだろうな。

  「そうそう、平等だからこそ残酷なんっす。中学の友達はほとんど休みなのに、私立のおれだけ休みの日に学校行ってるし。与えられた時間は同じなのになー。使える時間は違うって……」

  そこまで一気に話して、話を自分の愚痴に転換していることに気がつき……そして趣旨までズレていることにも。

  「うん。時間に関する悩みは尽きないね」

  シロミ先輩は国語力の低いおれにそっと微笑んでくれた。

  「悩みといえばクロサキくん。よくさ、いうじゃない。悩みがあったら相談するんだよって」

  「聞きますね。懇談のとき担任にいわれた経験あるっす。でもいったことないっす」

  「そう、そうなんだよ。悩みなんて誰しもが抱えてるよね。だけど他人では解決できっこない問題は大いにある」

  「わかります。勇気出していってもでどうにかなる保証なんてないし、そこまで信じてないかもっす。だから『ありません』って、諦めて」

  「こうして考えてみると、本当の悩みの前に、相談する人がいないという悩みが立ちはだかることになるね。実に複雑だ」

  悩みの件に関しては全面同意だったので、ようやく強めに相槌を打つことが叶った。

  一方で、すこし失礼ではあるものの、

  (へー。この人でも悩むことはあるのか)

  頭の中ではこう思ったりもしていた。

  何を考えているかわからない人にもちゃんと悩みがあって燻っているだなあと、飄々さの後ろに隠れた切実さがほんのり伝わってきた瞬間でもあった。

  だけれど、いうとおり、おれなんかじゃ到底どうしようもない。話すようになってせいぜい二日目の人が(ましてや年下だ)、核心部分を興味本位で聞くだけ聞いて、ろくなアドバイスすらできないのは明白で無責任なことので、

  「愚痴でよければ聞きますよ」

  という塩梅におさめておくのがベターなのだ、うん。話の流れからして、きっとセンパイもそれを求めていて

  「え〜解決してくれないの、ボクの悩み」

  ……センパイ?

  「あのー、おれで相談相手が務まるんすか……」

  「冗談だよ。困らせちゃいけないね」

  「そうですよ、ホントに。下の名前教えないのに、飛ばしすぎっす」

  そのとおりだね、とセンパイは案外すんなり引いた。かと思えば、

  「次会ったときにでも相談させてもらうよ」

  なんていい出すので、もうどこまで本気なのか掴めなくなって、いよいよ、

  「センパイは変な人っす!」

  究極の真理で対抗するほかなかった。この人と付き合っていくにあたって、今の返しは「使える」と思った。

  こんなふうに困らされながら、しかしおれはこのときほど、人と話をすることが「楽しい」と思ったことはなかったかもしれない。

  中学の友だちやクラスメイトと喋るときとは話の次元が違うようで、それはシロミ先輩が年上で頭が良さそうとか、互いをまだ深く知らない間柄だから逆に……とか、そんな単純な理由で片付けられるものではないという気がした。

  おれはセンパイがどんなことを考えているか興味津々だったし、自分の口から出てくる言葉は、いかにも真という感じだった。ふしぎなシロクマを前にすると、まだ知らない自分が引っ張り出されていく感覚があった。

  血が湧くという感じではない類の、ぬるい楽しさがずっとおれの周りを囲っていた。

  それからおれが先に降りるまで、いくら人が乗ってこようとも会話は途切れなかった。

  この日の収穫はセンパイの苗字だった。あとはまあ、朝に弱い体質だとか、センパイの主義とか思考の断片的な情報。

  「最後にもう一個教えてください。先輩って三年ですよね?」

  最後に学年を聞くことができた。

  「ええ? このボクが熱心な受験生に見えるのかい?」

  三年生の風格を放っていたシロミ先輩は、なんと驚くことに、おれとひとつ違い。つまり、二年生だったのだ。