Step 3〈センパイの取り柄〉

  [chapter: 12月10日 木曜日]

  シロミ先輩は神出鬼没だ。

  次にセンパイと会えたのは十二月に入って二週目の木曜日だった。なぜか先週は丸っきり会えなかったので、十日以上会わなかったことになる。

  芽吹台の駅で毎日同じ時間に乗ってくるとは限らない。帰りの電車で鉢合わせすることもなかった。帰りは乗り場が違うとか、部活の終了時間が違うとか、そんなところだろう。

  顔馴染みのとき、今日はいないのかと思うことはあったけど、別に数日見かけなかったからといって特段思うところはなかった。それが、今では以前のようにいかない。

  見かけない日は寂しい気がする。

  知りたいこともまだたくさん眠っているというのに。

  だから電車に乗ってくる姿が目についた瞬間、なにか楽しいことが起きそうだと気分が高揚する。悔しいがしかし、それは紛れもない事実なので、認めなければならないことだった。

  一段と冷え込んですっかり冬の空気になったというのに、シロミ先輩はマフラーも手袋もつけず、相変わらず本を持っているのが見えた。

  声を出すのがすこし憚られるくらいに乗車率が増してきた車内だったが、「おはようございます」と先に声をかけた。

  平日は座れないから先輩との距離はすぐそこだ。

  「やあやあクロサキくん。ベストモーニング」

  クマらしく丸みを帯びた柔和な顔つきからは想像のつきにくい、ダンディな声で挨拶を返してくれる。初めて耳にする「おはよう」のいい方で。

  一度その声を聞いてしまうと、妙にしっくりくる。たったの一声で、あのギャグを聞かされた日、名前を知った日のことが簡単に蘇るのだった。渋さの中に記憶を呼び起こす魔力でも宿っているんじゃないかとも思う。

  そうそう。今日は下の名前を教えてもらえる日だった。思い出しながら、いきなり聞くのももったいない気がして「今日もレシピ本ですか」と訊ねた。

  「クロサキくんはすっかりボクに興味津々だねえ」

  センパイはそういって、本の中身を見せてくれた。

  てっきりお菓子のレシピが載っていると思ったそのページにはしかし、予想とは真逆の――汗と泥が入り混じった、泥臭い試合のワンシーンが。

  「残念ながらレシピ本は終了さ。解放されたといっていいかもしれない」

  線の濃い絵柄で描かれるこの漫画をおれは知っている。読者では無いものの、それなりに名の知れたスポ根野球漫画だ。

  「へえ。スポーツものっすか」

  「情熱的な気分になりたいときに読むんだ」

  こんなジャンルもいけるクチか。ますますセンパイの趣味はわからなくなる一方で、

  「なんていうか、意外っす」

  気づけば思ったことをそのまま口に出していた。

  「そうかな?」

  「もっと大人が読みそうな本とか、マニアックなものかと。それにセンパイって」

  熱くなりたい時があるんすね。

  そう口にした瞬間、反射的に感じ取ったものがあった。ときどき第六感がキャッチする、言葉では表し難い、あまりよくないものだった。

  違和感。そして僅かな沈黙があり、センパイは声を発した。

  「意外かあ。うーん、そうなのかな」

  なんだか怒っているような口ぶりだった。

  (口ぶり? いや……)

  決して語気が変化したわけではない。表情もいつもと同じ穏やかさを放っているのに、おれとセンパイの間を漂う空気がほんの一瞬、静電気でも帯びたようにピリッとしたような。気のせいかな。

  再びセンパイの顔を窺ってみる。

  「えっと……」

  見間違いではなく、優しい印象を受ける目はにこやかなままで。おれが勝手にそう感じただけなんだろうか。

  わかるのは、この人は……怒っちゃなんかいない。そう簡単には怒らない人だ。勘が告げている。

  じゃあなんだ。今の変な感じは。

  (意外……ああ)

  自分の発言を省みて(確かに、今のはよくなかったぞ。相当)と、ようやくその失態――センパイのことを色眼鏡で見ていたことに気がついた。

  シロミ先輩のことをまだよく知らないくせに、「変」であることを押し付けているような発言だった。

  普通のマンガや小説ではなくて、小難しそうな哲学書、はたまたレシピ本なんかだったら「らしいですね」「っぽいです」。そんな言葉選びをしたに違いない。

  最もマズったのは最後の一言だ。もし自分がその発言を受け取ったらどう感じるだろうか。なにかに熱中する気持ちを冷笑しているみたいじゃないか。

  違和感の正体とは、配慮を欠いた自分の恥ずべき発言に対してだった。

  いくらセンパイが変でユルいからといって、当然好き勝手にいっていいわけではないのだ。

  親しき仲にも礼儀あり。まだ親しい仲とはいえないのなら、なおさらである。

  おれはすぐに「しまった」と思って謝った。

  「気遣いのできる優しい子なんだね」

  シロミ先輩は突然おれの手を握った。カイロみたいにあたたかい手で、それにもビックリして、

  「いえ、おれはそんな」

  また口を封じられてシドロモドロになってしまう。喋る言葉もでなければ、相手の目を見るのも忍びない。身動きの取れなくなった満身創痍なおれを見かねたのか、シロミ先輩はクスクスと笑い始めた。

  「怒ったと思った?」

  この人には人の心を見透かす能力が備わっているのかもしれない。隠しても無駄だと察知して神妙に頷いた。

  「それもたまに勘違いされる。でも、本当に、怒ったことなんてない。ボクのもう一つの取り柄は、生まれてこのかた一回も怒ったことがないことなんだから」

  怒らせてしまったと感じられる人が優しいんだよ、きっと。

  目が潤みそうになる、優しい声がけだった。

  自分の失礼さに呆れていたところを逆に褒められてしまい、身の置き所がない状態だった。

  「センパイこそ。風邪引かないのと、怒らないのが取り柄ってなんか素敵です」

  用心深くなっていたから、おだてるようなことをいったんだろうか。いや、違う。本心から素敵だと思ったんだ。

  おれは風邪も引くし普通に怒りもする。一般人はみなおれと同じ側なはずだ。だから、それは相当に凄いことだ。

  シロミ先輩はこちらのストレートな褒めにもまったく動じず「ありがとう」と静かに微笑んだ。

  「センパイ。そういえば、料理も得意なんすよね。部長だし。そっちは取り柄じゃないんですか?」

  「部長だから腕が立つとは限らないのがツラいところだね」

  他の部員たちがよほど美味しく作れるんだろうか。シロミ先輩はちょっと悔しそうに唸った。

  「そんなもんなんですか。でも気になるな、シロミ先輩のお手製料理」

  「ほぼお菓子専門だけどね。今度何か作ってきてあげようかい?」

  思ってもみないオファーだった。

  驚きはしたし、作らせるみたいになって申し訳なさを感じたけど、そんなのお構いなしに、食べてみたいと純粋に思った。

  自分でも意外なほど食い気味に「食べてみたいっす。お願いします」って口走っていた。

  「任せて。そんなに期待されると困るけれど、クロサキくんに喜んでもらえるように頑張ってみるよ」

  センパイは口元をわずかに綻ばせ、嬉しそうにアホ毛をふわふわと揺らす。

  今の笑みはギャグを思いついた時のそれとは違う。先ほどとは打って変わって屈託のない感じだ。見るや、この人になら多少甘えても大丈夫なんだと直感した。

  センパイからプレゼントをもらえるとなって相当舞い上がっていたんだろう。聞けるはずだった名前をすっかり聞きそびれたことに気がついたのは、電車を降りてからだった。

  センパイもいってくれればよかったのに。

  けれど、そのことはあまり問題ではなかった。次に会えるときの楽しみが増えたくらいにしか思わなかったから。

  能天気なおれは浮ついた足どりで学校に向かうのだった。